明季南略堵胤錫始末 孫可望謀禅 永暦六年 1652年
孫可望、封を脅し禅を謀る本末
- 孫可望は米脂の無頼から張献忠の養子となり、献忠没後、李定国・艾能奇・劉文秀と共に雲南を制圧、自ら「平東王」と称した。沙定洲の乱を鎮圧した経緯から沐天波を服属させ、雲南全土を掌握するに至った。
- 四川巡按銭邦芑らの働きかけで一時は帰順の姿勢を見せるが、陳邦傅配下の胡執恭が偽造した「秦王」の印綬を受けたことから紛糾、朝廷は正式には「平遼王」を与えたが可望はこれを拒み「秦王」を自称し続けた。李定国・劉文秀は爵位を辞退するなど、可望と他の養子たちの間にも路線対立が生じていた。
- 可望は次第に朝廷への圧力を強め、自派の馬吉翔・庞天寿らを通じて永暦帝の禅譲を画策する動きも見られたが、吳貞毓らの抵抗で頓挫。最終的に永暦帝は安隆(安龍)へ移され、可望は貴州で独自の朝廷機構を築き、旧明の印章をすべて自らの様式に改めるなど事実上の簒奪体制を敷いた。腹心の方于宣は「国史」を編纂し張献忠を「太祖」と持ち上げる一方、可望自身への勧進(皇帝への即位勧告)も進言したが、可望は人心の未帰服を懸念し躊躇していた。
- 銭邦芑は出家してまで可望への抵抗を貫き、その節義を示す詩を残したことで可望の怒りを買うが、折しも「安龍十八忠臣」の事件(可望に抵抗した忠臣たちの粛清事件)が起こり、禅譲の企ては結局実現しなかった。
銭邦芑、孫可望を招く書
- 銭邦芑は孫可望に宛てた書簡で、呉越王銭俶が宋に帰順した故事を引きつつ、可望と銭俶との立場の違い(既に明の旧臣であること、王号を僭称している点、雲南が明の版図であった点、多くの殺戮を重ねてきた点)を四つ挙げ、真に豪傑たらんとするなら朝廷に臣従し正統に帰すべきであると説いた。