明季南略永历在桂林 永暦帝(永明王) 永暦三年 1649年
雷雨風雹
- 己丑正月、永暦帝が肇慶にあった際、激しい雷雨と雹に見舞われ朝賀が中止された。著者はこれを不吉な前兆として記している。
李成栋、信豊に駐軍す
- 成栋は広州へ戻り軍備を整えるが、正月、亡霊に脅かされる幻覚に苦しめられ士気が衰え、梅関を越えることなく信豊県に留まった。
科道、陳邦傅を撃つ
- 正月・二月、朝廷の言官たちは陳邦傅の専横を弾劾することに終始し、他の国政が顧みられない状態となった。
科道、朝を散ず
- 陳邦傅弾劾を巡り、大学士朱天麟の対応に不満を持った言官十六名が抗議のため官服を脱ぎ捨てて退朝する事件が発生、帝は慌てて彼らを慰留し朱天麟を辞任させることで事態を収拾した。
何騰蛟、死難す
- 己丑正月、清軍が湘潭を破り何騰蛟が捕らえられ処刑された。騰蛟は湖広巡撫として左良玉軍への対応や各地の防衛に尽力した人物で、忠義に篤い反面、軍事的才覚には限界があったと評される。
李成栋、信豊にて再敗す
- 己丑二月二十六日、成栋は再び出兵するが、豪雨により火器が使えず清軍の奇襲を受け大敗、退却中に川を渡ろうとして落馬し行方不明となった(戦死したと伝わる)。
金声桓、水に赴く
- 江西の金声桓は清から離反し南昌に拠っていたが、清軍の猛攻により陥落、副将王得仁は自殺、声桓も入水して死んだ。
姜曰広、詩を賦して節に殉ず
- 姜曰広は南昌新建の人、万暦四十七年の進士。かつて宦官の勧誘を拒み、崇禎年間には度々直言を行った硬骨の臣。弘光朝でも東閣大学士として阮大鋮の登用に反対するなど節を貫き、南京陥落後は郷里に潜伏していたが、金声桓の南昌離反に際し盟主として迎えられた。己丑正月十九日、南昌陥落・声桓の死を受け、絶命の歌を詠み一族三十余名と共に池に身を投げて死んだ。
仮山図・五虎号
- 陳邦傅弾劾を巡る対立の中、朝廷内の派閥抗争を風刺する「仮山図」(官員たちの浅ましい様子を描いた戯画)や、丁時魁・蒙正発・金堡・劉湘客・袁彭年らを虎になぞらえた「五虎」の綽名が世間に広まった。
賀全業、獄を出づ
- 賀全業は鎮江丹陽の諸生で、永暦帝の藩邸時代からの旧知。官職を得るも派閥抗争に巻き込まれ、無実の罪で投獄されるなど苦難を経験した後、瞿式耜のもとへ身を寄せたと伝わる。
瞿式耜、各省を兼督す
- 何騰蛟・李成栋の相次ぐ死を受け、永暦帝は瞿式耜に留守督師として江西・湖広方面の軍事を委ねた。式耜は財政の建て直しと人材登用に努め、桂林は当時「稷下」(学問と人材の中心地)になぞらえられるほどであったと伝わる。著者は、式耜のような人材登用への配慮が全ての鎮撫の臣に行き渡っていれば、明朝の命脈もなお保たれ得たであろうと惜しんでいる。