明季南略永历在桂林 永暦帝(永明王) 永暦二年 1648年
永历、桂林に在り
- 戊子正月一日、永暦帝は桂林府にあり、朝臣が離散していたため朝賀を免じた。
永历、平楽に走る
- 何騰蛟が全州で督師するが軍の不和が続き、郝永忠の陣営が襲われると、周囲は帝の避難を求めた。瞿式耜は「軽々に播遷すれば国勢はますます弱まる」と強く反対したが、二月二十二日夜、帝は結局出発した。別伝によれば、永城伯霍允中なる者が寝所の帝を強引に連れ出し百官を脅して財を奪う騒動があり、帝は裸同然の姿で平楽府まで逃れたと伝わる。
瞿式耜、桂林を復守す
- 帝の出発後、桂林は混乱を極めたが、瞿式耜は刘遠生・丁時魁ら残った官と共に檄を発し軍を集め、三月一日には桂林の官署に復帰。何騰蛟・焦璉らの援軍も加わり、清軍の攻撃を撃退した。式耜は南寧が辺境で長く留まる地でないとして、帝の帰還路の確保に努めた。
永历、南寧に駐す
- 三月十日、永暦帝は南寧府に入り、厳起恒を中心に人心収攬の布告を出し、土州の人材登用を進めるなど体制整備を図った。
皇子生る
- 四月一日、世子が誕生。王化澄が太子冊立を求め大赦が行われた。
土官の陞授
- 田州・果化州などの土司が朝廷に取り入り、土司出身者が次々と知府や道職に昇進する現象が見られた。
李成栋、明に帰す
- 四月十日、清の広東統兵固山李成栋が広東・広西の軍馬・銭糧・戸籍を挙げて永暦朝に帰順、進士洪天擢らを使者として派遣した。成栋の帰順の背景には、寵愛した妾(松江の妓女)が己を犠牲にして忠義を促したという逸話が伝わる。
群臣、復た出仕す
- 成栋の帰順が確実になると、隠棲していた王化澄・朱天麟ら多数の旧臣が相次いで出仕、任官希望者が殺到する事態となった。
章服錯乱
- 科挙受験や登用を求める者が身分を問わず殺到し、官服の規格も乱れ、朝廷は事実上「墟市」のような混乱状態になったと伝わる。
両粤復た全し
- 何騰蛟が全州を回復(五月二十七日)、江西の金声桓も清から離反して南昌を確保するなど、両広は一時的に平定された。瞿式耜は帝の東遷を急がないよう繰り返し諫めたが、聞き入れられず帝は梧州から肇慶へ向かった。
朱天麟、相に邀えらる
- 朱天麟は崑山の人で隠棲していたが、成栋の帰順を機に太監王保を通じて推挙され、辞退を装いつつも礼部尚書格の宗伯に就任、一族で要職を占めるようになった経緯が記される。
陳邦傅、永历を浔州に留む
- 閏六月十日、永暦帝一行は南寧を出て浔州へ向かうが、旧総兵陳邦傅が引き留め、自らの功績を誇示しつつ朝廷への不満を露わにした。邦傅は随行の大臣にも冷遇を加え、兵部尚書蕭琦は憤死するなど、朝廷内の対立が深刻化した。二十日、邦傅は帝を浔州府署に留め置き、官職の売買まで行うようになった。
張立光、賄を受け敕を換う
- 七月、中書舎人張立光が敕書の文言を賄賂により改竄する事件が発覚したが、追及は有耶無耶に終わった。
晏日曙ら四臣、蛇廟に殞身す
- 晏日曙・李永茂・田芳・鄭封らは、長らく山中に潜伏し帝を待ち続けたが、湿熱の気候にあてられ相次いで急死し、ついに帝に見えることなく世を去った。
葉子眉、朝歌の逆旅にて壁に題す
- 広陵の女性葉子眉が、戦乱で連行される途上、宿の壁に望郷の詩を書き残した(戊子七夕の二日前)。
永历、再び肇慶に入る
- 七月二十五日、陳邦傅の冷遇に耐えかね帝は浔州を離れ、李成栋の招きで肇慶へ。八月一日、成栋自ら文武百官を率いて出迎え、行宮の体制も整えられた。成栋は最高位の爵を加えられ、以後政務の大小は成栋の意向を経て奏上される体制となった。
李成栋、師を出だす
- 成栋は寡黙で厳格な人物として知られた。八月十二日、南雄以北を自ら担うと宣言し二十万の兵を率い出陣、江西の金声桓と連携する構えを見せた。
朝臣、李元胤に媚びる
- 成栋の出陣後、朝局は一変。都察院左都御史袁彭年が成栋の養子李元胤に取り入り、両者を中心とした派閥政治が展開、朝廷は実質的に元胤の私邸に権力が集中する状態となった。
李成栋、庾関にて初敗す
- 十月、成栋は江西へ進軍するが、内応の裏切りにより赣州郊外で軍が総崩れとなり、単騎で敗走、二十万の兵と装備を失うという大敗を喫した。
文選、空札を給す
- 九、十月、官職を求める者が殺到し、実際の任地もないまま空名の任命状(空札)だけが乱発される状態となった。
陳邦傅、南寧を囲む
- 十月、陳邦傅は南寧府を包囲し二ヶ月にわたり兵糧攻めにし、守将趙台を降伏させた。
賈士奇、施召征を辱む
- 十一月、李元胤に連なる銮儀司賈士奇が、些細な礼儀の行き違いから文選施召征を面罵し辱める事件が起きた。
呉其靁、宵に遁る
- 十一月、兵科呉其靁が官界の綱紀粛正を訴える上疏を行うが、袁彭年・李元胤の恨みを買い、身の危険を感じて桂林へ逃れた。
朱容藩、僭乱の本末
- 朱容藩は楚藩の傍系出身で、素行不良から各地を転々とし、偽って郡王を自称するなど詐欺的な行動を繰り返した人物。永暦朝でも一時信任を得て官職に就くが、やがて自ら「監国」を僭称し独自の政権を装う暴挙に出た。四川各地の将を巧みに取り込み専横を極めたが、銭邦芑・堵胤錫らの弾劾と説得により配下の武将が離反、最終的に李占春に攻められ山中に逃げ込むが土民に捕らえられ処刑された。
武岡播遷の始末
- 劉承胤は元来無頼の徒であったが、武力を頼みに総兵に取り立てられ、後に永暦帝を擁して専横を極めた。丁亥、帝が武岡に駐蹕すると承胤は益々驕り、督師何騰蛟を暗殺しようと企てるなど朝廷を私物化した。清軍が常徳を破ると、承胤は密かに投降を図り、帝は辛くも脱出したが、随行の吏部主事らが清軍に殺されるなど大きな犠牲を出した。承胤自身も降伏したが、後に部下の裏切りが疑われ、戊子四月、清軍により一族もろとも数万人が虐殺されるという悲惨な結末を迎えた。