明季南略閩紀 台湾復啓・鄭鳴駿投誠等 康熙二年 1663年

台湾復啓

  • 鄭成功没後、その子鄭経(東寧すなわち台湾に拠る)に宛てた清側からの招降の書簡に対し、経は「思明(厦門)撤退は兵糧の問題であり敗戦ではない、台湾は既に版図の外にあり日本・呂宋とも交易する独立した拠点である」として帰順を拒否し、「削髪」という条件そのものが交渉の争点であり続けていることを指摘、農業振興と安定統治にこそ関心があると返答した。

鄭鳴駿、傾心して投誠す

  • 康熙二年八月、鄭鳴駿は、兄の建平侯鄭泰が海上で二十年勢力を保ってきたが清の招撫に応じ帰順を決意していたところ、鄭錦(鄭経)配下の馮澄世・陳永華らの謀略により鷺門(厦門)で拘束され、自ら縊死して弟に帰順の遺志を託した経緯を上奏、自らが文武四百余名・兵七千余名を率い泉州へ帰順したことを報告した。

海賊を擒斬す

  • 康熙二年十月、福建総督李率泰は、水師提督施琅の戦果(鄭経配下の水陸両軍の急襲を未然に防ぎ、偽将官らを捕斬した戦い)を報告した。

厦門大捷

  • 康熙二年十二月、靖南王耿継茂は、清の陸海軍が厦門・金門を挟撃し鄭経・周全斌の軍を撃破、多数の船・兵器を鹵獲し敵将を討ち取った大勝利を詳細に上奏した。清軍は最終的に厦門・金門の拠点を焼き払い、鄭氏勢力は銅山・南澳方面へ追い詰められたと報告されている。