明季南略永明王始末 永暦帝(永明王) 永暦元年 1646年

永明王始末

  • 順治三年(丙戌)八月、福京(福州)陥落の報を受け、両広総督丁魁楚・広西巡撫瞿式耜・広東巡撫王化澄らが監国擁立を協議、式耜が「永明王は神宗の嫡孫であり最も相応しい」と主張した。永明王由榔は桂恭王常瀛の末子で、父の死後、広西梧州に避難していた。かつて隆武帝も「永明こそ後継にふさわしい」と語っていたが、母の王太妃は「我が子は仁柔で乱世を治める器ではない」と固辞したと伝わる。
  • 諸臣の強い要請により十月十日に監国、十四日に皇帝に即位(当初は隆武二年を称し、翌年を永暦元年とした)。肇慶府署を行宮とし、丁魁楚・呂大器を大学士、瞿式耜を吏部右侍郎兼閣学に任じた。しかし実権は丁魁楚が独占し、官職売買が横行するなど、軍国の重事には手が回らなかったと伝わる。

広州に紹武を立つ

  • 福建から逃れた旧輔蘇観生・何吾騶は、丁魁楚との不和から独自に唐王の弟聿䌷を擁立、十一月一日、広州で即位させ「紹武」と改元した。海上の鄭・石・馬・徐四姓の勢力を総兵に任じ、肇慶(永暦朝)と対立する構図となった。即位からわずか一月余りで様々な大典を性急に挙行し、官職も乱発されたと伝わる。

永历、梧州に移る

  • 清軍の南下の脅威が迫る中、丁魁楚と太監王坤は永暦帝に梧州への避難を勧めるが、瞿式耜は「今こそ祖宗の仇を雪ぐ好機であり、怯懦であってはならない」と反対、結局梧州へ移り、後に肇慶へ戻った。旧大学士陳子壮の勧めもあり、紹武討伐のため兵科給事彭燿を派遣するが、蘇観生らに市中で殺害され、紹武軍は肇慶へ迫った。右司馬林佳鼎が東郊で防戦するが、東軍の偽装降伏により敗死した(史料により林佳鼎を永暦方・紹武方いずれとする説もあり、勝敗の記述も食い違いがある)。

王坤、諸臣を擅改す

  • 瞿式耜は、草創期にこそ徳を養い綱紀を正し人心を得るべきと上疏したが、旧北京の宦官王坤が司礼秉筆として人事に介入、式耜の反対にもかかわらず不当な人事改変が相次いだ。式耜は繰り返し「宦官による人事の恣意的な操作は臣下の忠誠を損なう」と諫めたが、聞き入れられないことも多かった。

辜朝薦、策を献じて広を下す

  • 潮陽の辜朝薦は、広東の実力者何吾騶との確執から、清軍に広東攻略の策を献じた。清の固山李成栋は精鋭を先発させ、十二月十一日、船乗りに変装した先鋒が広州布政司前で決起、わずか十人で城内を混乱させ、五日後には大軍が到着し広州を制圧した。蘇観生は捕らえられ「一介の布人として両朝の相位に上った、死に悔いはない」と述べ処刑された。何吾騶・顧元鏡は投降し、紹武帝は変装して逃亡を図るも見破られ、副将杜永和に捕らえられ処刑された(在位わずか二ヶ月)。

李綺、丁魁楚を参ず

  • 十二月十八日、侍御李綺は丁魁楚の十の大罪(欺君・誤国・玩兵・害民など)を弾劾したが、上は魁楚を慰留し、李綺は逆に降格・左遷された。

永历、西峡に奔る

  • 李成栋は紹武帝を殺した後、十二月二十三日に南韶へ、自ら肇慶へ進軍。二十五日、瞿式耜は自ら戦線に出ることを願うが、王坤は永暦帝の西方避難を主張、式耜の反対も聞き入れられず、帝は小舟で西峡へ逃れた。丁魁楚はこの混乱の中、既に自らの保身を図り始めていたと伝わる。

丁魁楚

  • 丁魁楚は河南永城の人。山西巡撫時代の失策で一時流刑となるが、賄賂により復職。永城の内紛鎮圧の功で名誉を回復し、両広総督に任じられた。乙酉七月、南京陥落を知ると密かに靖江王と通じ広東で事を起こす計画を立てたが、後に隆武帝側に寝返り靖江王一派を捕らえて処刑、その功で靖粤伯に封じられるなど、終始日和見的な行動で知られた人物であった。

沐天波、土司を激変せしむ

  • 沐天波(沐英の子孫、代々雲南を治める黔国公)は、南京陥落を受け防備増強の資金として塩税の付加を土司に課したが、丙戌九月、楚雄府の土司吾必魁がこれに反発、府の官員を殺害し城を占拠する反乱を起こした。

沐天波、沙定洲に調す

  • 天波は自力での鎮圧が困難と見て、勇猛で知られる沙定洲(沙亭州)の力を借りることにした。沙定洲は、かつて雲南の乱を主導した女傑范氏(普民升の妻)が夫を捨てて嫁いだ相手で、その統率のもと雲南随一の強力な土司勢力に成長していた人物であった。

沙定洲、沐府を襲破す

  • 十一月、沙定洲は楚雄の乱を鎮圧、天波に厚遇されるが、二十九日、拝謁の儀式に乗じて突如凶刃を振るい沐府を急襲、天波は辛くも城壁を越えて逃亡、五百人近い沐府の人々が殺害された。定洲は沐府の莫大な財宝を掌握し、自ら新たな支配者を称した。著者は、代々蓄えた沐府の財が結局は仇に奪われる結末となったことを、財を惜しんで国難に協力しなかった諸藩の末路になぞらえて戒めている。

張献忠、蜀を乱す本末

  • 甲申(1644)春、張献忠は湖南を席巻したのち、左良玉軍に敗れて長江を遡り四川へ侵入。巡撫陳士奇の無策のもと重慶が陥落、瑞王一族も殺害され、成都でも蜀王一族・巡撫劉之渤らが殺され、献忠は「大西」国を建て「大順」と改元、孫可望・李定国・艾能奇・劉文秀ら(皆「張」姓を冒す養子)を各将軍に任じた。
  • 献忠は残虐な統治で知られ、些細な過失で側近すら処刑するなど恐怖政治を敷いた一方、各地で義兵が絶えず蜂起し、任命した地方官が短期間で殺されることも多かった。乙酉春には皇后冊立の儀礼を軽んじる逸話や、川北から流入した「揺黄」賊との混乱も記録される。
  • 遊撃曾英が武隆・彭水で義勇を募り重慶・瀘州などを回復、王応熊が督師として指揮を執り、曾英の勢力は次第に拡大した。献忠は乙酉四月に張定国らを送り曾英を攻めるが撃退され、開いた科挙では状元張大受を寵愛しながらも突如処刑するなど、その気まぐれな暴虐ぶりが記録されている。丙戌には成都近郊の住民を根こそぎ虐殺し、城を焼き払って川北の西充山中へ撤退、部下の統制にも疑心暗鬼を強め、皇帝の地位を捨てて富商として余生を送ろうかと漏らす場面もあったと伝わる。
  • 十月初め、部将張可旺らが献忠暗殺を企てていた矢先、清に降った旧部将劉進忠が馬科の軍を導いて奇襲、献忠は喉に矢を受けて落馬し死亡した。残兵は張可旺らに率いられ重慶方面へ敗走する中、曾英も乱戦の混乱で溺死、献忠配下は貴州を経て雲南へ逃げ込み、折しも沙定洲の乱で無防備となっていた雲南を制圧することとなった(孫可望・艾能奇・李定国・劉文秀が旧姓に復し各々「王」を称した)。

郭献珂起兵

  • 甲申七月、張献忠が派遣した偽将馬科が四川保寧一帯の招撫を図るが、旧兵部主事郭献珂が桃園で挙兵しこれを撃退、偽将宋朝臣を捕らえて処刑した。