明季南略閩紀 己亥年 1659年

鄭成功、鎮江に入る

  • 鄭成功はもと森といい、鄭芝龍の四男。隆武帝の養子となり国姓を賜り成功と改名した。丙戌(1646年)に父芝龍が清に降り北京に抑留されると、成功は自ら兵を率い海に拠り、後に父の処刑を知って浙江へ進出、温州・台州を襲うなど活動を続けた。戊戌(1658年)には南京進攻を図るが暴風で頓挫。
  • 順治十六年(己亥)五月十三日、成功は十万と号する(実戦力約三万)兵を率い長江を遡上、江陰・鎮江を経て金山に至り、天・地・先帝への三日にわたる祭祀を行った。長江の防塞(清側が築いた巨大な木壩)を、水兵を潜ませた囮の船で挑発しつつ突破、瓜州を攻略。鎮江でも清軍を撃破し、城の守将高謙・太守戴可立らは降伏、成功は延平王を称し「王爺」と呼ばれた。江南各地で城が次々と鄭軍に降る事態となった。

郎廷佐、鄭成功を大敗せしむ

  • 南京を守る清の部院郎廷佐は城外の家屋を焼き払い民を城内へ収容、持久戦の構えを取った。鄭軍は南京を包囲するが攻めきれず、城内は食糧難に陥りつつも守りを固めた。清側は密偵を放ち鄭軍の内情(成功の誕生日に諸将が油断して酒宴を開く計画)を掴み、隠し門から精鋭を突出させる奇襲を敢行、あわせて鄭軍の火薬船を焼き払う工作も成功させた。
  • 激戦の末、鄭軍の先鋒甘輝は深手を負い敗走、鄭軍は総崩れとなり、多数が長江に飛び込み溺死するなど大敗を喫した(七月二十四日)。郎廷佐はこの勝利を上奏し、清朝は沿江で一時清に降った諸県を不問に付す寛大な措置を取った。淮安総漕亢得時は鎮江救援に向かう途中で敗れ河に投じて死んだと伝わる。