明季南略潞王出降 潞王・魯王監国 乙酉年 1645年

潞王出降

  • 順治二年(乙酉)五月、清軍が南京平定後、貝勒博洛が軍を分けて浙江に侵攻。潞王は杭州に避難していたが、六月、杭州の人々が潞王を推戴した。博洛が書状で招くと、王は抗する力なく、また民を犠牲にすることを望まず自ら陣営へ赴き、民への危害なきよう請うた。博洛はこれを認め、杭州は無血で接収された。後に潞王は北へ連行され、弘光帝・王之明(偽太子)と同様に消息を絶ったと伝わる。
  • 附記:清軍の杭州到達に際し、旧行人陸培が縊死、某県知県梁於涘も死んだと伝わる。

祁彪佳、池水に赴きて死す

  • 貝勒は杭州に駐屯後、官吏を浙東に派遣し招撫と薙髪を進めた。旧蘇松巡撫祁彪佳は郷紳への出頭要請を受け、池に身を投げて死んだ。
  • 祁彪佳は紹興山陰の人、天啓二年(壬戌)の進士。興化府推官として兵の騒擾を鎮め、崇禎年間には福建道御史として直言を重ね、蘇松巡撫としても民の利害に通じた善政で知られた。弘光朝でも巡撫として江防の強化に努め、詔獄・特務機関・廷杖の弊害を訴える上疏も行ったが、疎まれて辞任していた。
  • 乙酉夏、清軍の招降に際し妻に「杭州へ出向いて病と称し辞退すれば帰れるかもしれない」と述べ出発の支度を装ったが、閏六月六日夜、密かに放生池に身を投げて自殺した。机上に「棺は既に蕺山戒珠寺に用意してある、すぐに殮すべし」との書き置きを残していたという。後に「忠敏」と諡された。

高弘図、食を絶ちて死す

  • 旧大学士高弘図は紹興城内に寓居していたが、野の寺に逃れ、食を断って死んだ。

劉宗周、絶粒して死す

  • 劉宗周は紹興山陰の人、「念台先生」と称された学者。万暦二十九年の進士で、崇禎年間には礼部・都察院などを歴任し、魏忠賢一派の弾劾や温体仁批判で度々処罰を受けながらも直言を貫いた。弘光朝でも馬士英・劉沢清らの専横を批判し辞任していた。
  • 翌乙酉、清軍の杭州侵攻に際し、同郷の祁彪佳と挙兵を約すが果たせず、彪佳の死を知り、二十日間食を絶って六月八日に没した。絶命の詩に「あと十日ばかりの命を保ち匡済の志を存す、この一朝に死を決し我が生涯を全うす」とある。
  • 劉宗周は「学問とは人たることを学ぶこと」と説き、古の小学を興し門人と共に学んだ。祁彪佳は「その奏疏は名臣奏議に匹敵する」と評したという。

王毓蓍、柳橋河に赴きて死す

  • 王毓蓍は紹興の諸生で劉宗周に師事した。乙酉六月、清軍の杭州陥落に際し、降伏を主張する仲間の意見に憤り「降らざる者は会稽の王毓蓍なり」と門に貼り紙をした。劉宗周の挙兵の報に喜ぶが果たされず、師への遺書を残し「愿くば先生も早く決断され、王炎午に弔われるようなことのなきよう」と諭した。泮池が浅かったため柳橋河に身を投げて死んだ(六月二十二日)。

潘集、石を袖に河に沈んで死す

  • 会稽の布衣潘集は、両親を蘇州の乱で亡くし遺骸も得られなかった経緯から、清軍の到来に際し死を誓い、王毓蓍の死を知って哭き、東橋の下で石を袖に沈み死んだ。

周卜年、海に躍り入りて死す

  • 山陰の周卜年は、王毓蓍・潘集の死を知り「二人に遅れず先んじもせず」と、薙髪が迫る中「天よ、私はどうして生きられようか」と叫び、海に身を投げて死んだ(閏六月六日)。三日後、遺体が逆流して現れたという奇異な話も伝わる。
  • 越の人々はこの三名の節義に感じ、毓蓍を「正義先生」、潘集を「成義先生」、卜年を「全義先生」と私諡した。

王思任、馬士英を斬るを請う疏

  • 馬士英が弘光帝の母后を奉じ紹興に至った際、旧九江僉事王思任は太后に上疏し、馬士英の専横(阮大鋮の重用、官職売買、史可法への責任転嫁など)を糾弾、速やかな処刑と自省の詔を求めた。

又、士英に上る書

  • 王思任は馬士英本人にも書を送り、擁立の功があったにもかかわらずその後の専横で人心を失わせたと批判、自ら首を差し出して天下に謝るか、有能な大臣に権限を譲るべきと説き、応じなければ自らが先んじて士英を拒む覚悟を示した。士英は返答できなかったと伝わる。

魯王監国

  • 魯王以海は太祖の十世孫。父寿鏞は崇禎十五年の兗州陥落に際し自害、以海は幼くして難を逃れた。崇禎十七年に王位を継いだ。
  • 乙酉五月の南京陥落後、旧戎政尚書張国維が郷里で義勇を集めていたところ、六月に杭州の潞王擁立、続く潞王の降伏を経て、浙東各地で熊汝霖・孫嘉績・鄭遵謙らが挙兵、台州に避難していた魯王を迎えて監国に推戴(乙酉六月二十七日)。すぐに紹興へ移り、張国維が大学士に。馬士英も浙東に逃れ入朝を図るが、国維がその誤国の十大罪を弾劾し阻んだ。方逢年・宋之普・朱大典も入閣、陳函煇が兵部侍郎に、方国安・張鵬翼がそれぞれ厳州・衢州の守備に任じられた。

張国維に尚方剣を賜う

  • 七月、張国維は富陽を奪還。諸軍の統制が乱れていたため、統一指揮の重要性を上奏、魯王は国維を太傅に進め、諸軍統率のため尚方剣を授けた。

浙・閩の不和

  • 福建で隆武帝が即位すると詔書が浙東にも届き、栄達を求める者が多く従おうとした。魯王がこれを不快に思い台州への退去を考えると士民は動揺、張国維は「監国は身を引くべきでなく、両者は叔姪の関係にあり優劣を論じる時ではない」と説得、浙・閩両政権の不和が定着することとなった。

諸臣を封ず

  • 十一月、方国安を荊国公、張鵬翼を永豊伯、王之仁を武寧伯、鄭遵謙を義興伯、国維の子世鳳を平敵将軍に封じた。