明季南略潞王出降 丙戌年 1646年

王之仁、戦を請う

  • 浙東の将士は清軍と銭塘江を挟んで対峙、丙戌春以降度々敗れ士気が低下していた。王之仁は「事の起こりには誰もが黄龍府を衝く志を持っていたのに、一敗しただけで銭塘江を国境とみなすとは忍びない」と述べ、自ら決死の水戦を志願した。著者はこの上疏を当時の武将随一の気概と評し、方国安ら他の将を「奴隷にも劣る」と対比している。

王之仁、江心に襲戦す

  • 三月一日、清軍が船を並べ堰を開いて渡江を図ると、張国維の指示のもと王之仁が水師を率い江心から奇襲、多数の敵船を撃破し鄭遵謙は鉄甲八百余を鹵獲した。この頃、隆武帝の使者陸清源が犒軍のため訪れるが、馬士英が方国安を唆して使者を斬らせ隆武帝を非難する檄文まで出させるという事件が起き、国維は「これで禍が起こる」と嘆いた。

方国安、夜に紹興へ走る

  • 五月、清の貝勒が浙東の虚実を探り北岸の兵を増強、旱天を利用し騎兵を進め大砲で南営を砲撃、方軍の炊事場が破壊されると国安は「天が我が食を奪った、唐王(隆武帝)に帰順しよう」と考え、五月二十七日夜、馬士英・阮大鋮の軍と共に魯王を脅して南へ連れ去った。

浙師、潰散す

  • 五月二十八日、方国安の逃亡を知ると鄭遵謙は財貨を携え海へ、他の諸軍も潰散した。なお踏みとどまっていた王之仁は張国維に「我らの心血もこれまでだ、清の大軍を前に孤軍でどう戦えるか、私は船があるので海へ逃れられるが、あなたは船がない、急ぎ策を講じられよ」と涙ながらに告げ、国維はやむなく魯王を追って撤退した。

大清兵、銭塘江を渡る

  • 六月一日、清軍が銭塘江を渡河。附記として、貝勒が渡河直前に「福運があれば渡れる、なければ渡れない」と諭したこと、六和塔が崇禎九年に焼失し中心部だけが残った現象と、この年の銭塘江の砂州形成が予言されていた伝承などが記される。

魯王、舟山に遁れ入る

  • 張国維は王を追って豊橋まで至るが、方国安・馬士英・阮大鋮の軍がその後を断ち、王を捕らえて清に投降しようとする陰謀があった。しかし守備の者が病に倒れた隙に魯王は脱出、既に海船に乗り込んでおり、追手が来た時には既に遅く、王は舟山へ逃れた。

余煌、水に赴く

  • 礼部尚書余煌は朱印の布告を出して城門を全て開放し兵民を逃がしたのち、衣冠を正して入水した。天啓五年の状元で、魏忠賢一派との関わりから崇禎初年に一時罷免されていたが、最期の節義で名を残した。

張国維、園池に赴きて死す

  • 魯王が海船に逃れた後、張国維は台州へ向かうが船を得られず東陽へ引き返し再起を図る。閏六月十八日、清軍の義烏陥落を受け、周囲は入山を勧めたが「文天祥・謝枋得のように一死あるのみ」と述べ、二十六日、清軍が七里寺に迫ると衣冠を正し南を拝して「臣の力は尽きた」と絶命の詩三章を残し自害した。
  • 張国維は東陽の人、天啓二年の進士。地方官として卓越した実績を残し、崇禎年間には応天巡撫・兵部尚書などを歴任、清軍の侵入に対する防備強化に尽力した人物であった。弘光朝でも戎政尚書として四輔設置を提案するも実現せず、南京陥落後は魯王擁立に尽力し東閣大学士として一年にわたり江上の防衛を支えた。

王之仁、殺さる

  • 王之仁(興国公)は妻妾・子・孫らを蛟門で入水させ、自らは勅印を奉じて北面再拝の後、これも水に投じた。単身松江に至り、内院洪承疇に「自分は前朝の大帥、命惜しさに逃げ隠れるのではなく、堂々と死にたい」と自ら出頭、薙髪を拒み八月二十四日に処刑された。処刑に際し「先帝は三壇を設けあなた(洪承疇)を祭ったが、あれは犬を祭ったようなものだったな」と罵ったと伝わる。

陳函煇、節に死す

  • 陳函煇は台州臨海の人、崇禎七年の進士。魯王監国のもと礼部侍郎に任じられ、紹興陥落に際し入水して死んだ。文才に優れ、生前に交友の広かった人物。絶命の詩十章を残し、「生きては大明の人、死しては大明の鬼」との句が特に知られる。友人への遺書と祭文、「埋骨記」を作り、静かに笑いながら首を吊って死んだと伝わる(一説には入水とも)。

陳潜夫、一家で河に沈む

  • 太仆寺少卿陳潜夫は妻妾・親族と共に手を取り合い入水した。かつて仲違いしていた陸培も、杭州陥落の報に接し自縊しており、共に国に殉じたとして人々に称えられた。

朱大典、一門で焼死す

  • 朱大典は金華の人、万暦四十四年の進士。魯王監国下で大学士を加えられ、清軍の金華攻撃に一ヶ月余り抵抗するが紅衣砲で城が破られ、一族もろとも火を放ち焼死した。子の師郑邠も共に死んだ。

張鵬翼、殺さる

  • 総兵張鵬翼は衢州を守るが部下の内応により陥落、鵬翼と楽安王・楚王・晋平王が共に殺害された。督学御史王景亮も屈せず殺された。

王瑞旃、縊死す

  • 温州永嘉の王瑞旃は天啓五年の進士。清軍の温州陥落に際し登用の誘いを拒み、先祖の遺影に別れを告げ、友人と酒を酌み交わした後、自ら縊死した。

鄒欽尭、江に赴く

  • 永嘉の鄒欽尭は薙髪令に抗い入水したが遺体は見つからなかった。

葉尚高、薬を飲み罵りて死す

  • 永嘉の葉尚高は清軍入城に際し狂人を装いながら「洪武聖訓」を叫び続け、廟での儀式でも当局を面罵、拷問にも屈せず薬を飲んで自ら命を絶った。