明季南略高傑論保江南 福王(弘光帝) 崇禎十七年 1644年

高傑、江南の保全を論ず

  • 高傑は、黄河沿いの守りだけでは不十分であり、上流の確保や海路の防備も含めた総合的な防衛計画を早急に定めるべきだと上奏、総兵李朝雲を泗州へ、参将蒋応雄・許占魁・郭茂栄・李玉を徐州へ派遣し防備を固めた。寧南侯左良玉も副将蘇薦・遊撃朱国強の戦功と偽官捕縛の実績を報告した。

陳子龍、水師募練を疏す

  • 六月十九日、陳子龍は、祖母の看病のため一時帰郷していたが北京陥落の報に接し、松江知府陳亨・中書舎人宋徴璧らと共に私費で兵船を集め水軍を組織したと報告。史可法・万元吉からの支援要請を受け、職方司主事何剛を中心に沙船二十五隻・水兵千余名を揃え、一ヶ月内に態勢を整える見通しを述べた。

張亮、辺防を奏す

  • 六月二十九日、安廬巡撫張亮は、河南方面からの渡河が実際にはほとんど無防備であることを、自らの使者が容易に賊地を往来できた実例を挙げて報告、密偵の跋扈と物資の密輸を防ぐため沿河州県の検問強化を求めた。

章正宸、時事を論ず

  • 七月二日、吏科章正宸は、諸将の私闘ばかりで公戦の実績がなく、士気の低下が著しいと批判、河北・山東の義勇に呼応し四鎮を渡河させ攻勢に転じるべきこと、上自らが淮上に親征し士気を鼓舞すべきことを説いた。

熊汝霖、四鎮を封ずるを論ず

  • 戸科熊汝霖は、略奪と殺戮によって侯爵を得た四鎮の在り方を批判、古の藩鎮制に倣い黄河以北に屯田・府を設けるべきで、内地に居座らせるべきではないと論じた。

蒋芬、勤王を請う

  • 広西巡撫方震孺、松江知府陳亨、給事中李維樾兄弟らが相次いで軍資を投じ義勇を募った。建陽知県蒋芬も私財を投じ火器を造らせ、勇士を募って三度勤王を願い出た。

王孫蕃、東南の形勢を論ず

  • 御史王孫蕃は、江南防衛の要は長江沿岸の防備にあるとし、彭沢・京口の二鎮設置は的確だが、京口には監軍道の設置が必要であり、孟河・金山などの要地の兵力も不足していると指摘、早急な増強を求めた。

李向中、楚省の安危を陳ぶ

  • 兵部員外李向中は、湖広の窮乏と軍備の空虚を憂い、荊・襄への重鎮設置と大兵の駐留を提案、承天の皇陵防衛の重要性も説いた。また左良玉の武昌駐留による勢力偏重を懸念しつつも、巡撫何騰蛟の統治は民に慕われているとして、その留任を求めた。

王応熊、楚・鄖・貴・広の節制を請う

  • 四川督輔王応熊は、四川が張献忠に席巻される中、川陝総督による保寧・順慶方面の牽制と、雲南・貴州との連携による挟撃策を提案、広西・鄖陽の節制権も自身に与えるよう求め、許可された。

黄耳鼎、解学竜・張縉彦を劾す

  • 御史黄耳鼎は、刑部尚書解学竜が従逆の重罪人に寛大すぎる処分を下していること、張縉彦が賊に屈しながら要職に留まり実質的な戦果を上げていないことを弾劾したが、不問に付された。

朱国弼、路振飛を劾す

  • 保国公朱国弼は、旧淮撫路振飛が賊の急迫に際し囚人を解放し、太后の入城を拒み不遜な発言をしたなどとして弾劾、法司送りとなった。

高傑、大清粛王に書を遺す

  • 高傑は清の粛王に宛て、李自成討伐への協力を求める書簡を送り、清軍の力を借りて先帝の仇を討ちたいとの意向を伝えた。使者として副将唐起龍の父唐虞時からも投降を勧める書が届いたが、傑はこれに応じず、専ら黄河沿いの防備強化に努めた。

粛王報書

  • 粛王は返書で、真に帰順の意があるなら自ら渡河して会談すべきであり、単なる共同討伐であれば皇帝への上奏が必要と応じた。

史可法、軍餉を請う

  • 九月、史可法は、四鎮設置は江北数州の私領化のためではなく、開封・帰徳から関中・洛陽への進撃を見据えたものであると強調、六月に要請した軍糧が九月になっても届いていない現状を嘆いた。

史可法、恢復を請う

  • 十一月十七日、史可法は、東晋・南宋の偏安が結局は恢復の意志を欠いた結果であったことを引き、当初の悲憤の気概が失われ軍が驕り財政が乱れている現状を憂慮、清側が既に南朝を「僭逆」と呼んでいる以上和議は成立し得ないとし、上自らが光武帝・少康のように恢復への強い意志を持つべきと訴えた。あわせて、乱発された恩賞・爵位の抑制、軍資調達のための内庫の活用と無用な出費の削減を求めた。上は「西方からの収入が乏しく容易ではないが、内庫の節約に努めている」と応じた。

大清摂政王、史可法に書を致す

  • 九月、清の摂政王(ドルゴン)は副将唐起龍を通じ史可法に書簡を送り、「春秋」の大義を引いて南京での即位を「賊を討たぬまま新君を立てた」行為と批判、清が李自成を討ち崇禎帝の仇を討ったことを強調し、南朝が自立を続けるなら平西王呉三桂の例に倣い藩として臣従するよう促し、応じなければ討伐に転じると通告した。

史可法答書

  • 史可法は返書で、崇禎帝殉節後の福王擁立の経緯(神宗の孫・光宗の甥として正統性があること、即位に際しての瑞兆)を説明し、「春秋」や「資治通鑑綱目」における歴代の即位の先例(光武帝の中興、劉備の即位、東晋・南宋の継承など)を引いて自らの立場の正当性を主張、清が呉三桂を通じ李自成を討った恩義には感謝しつつも、清が今度は南朝征討の先導に李自成軍を用いようとすることは「義理の後に利に転じる」矛盾した行為だと反論、共に李自成討伐にあたることを提案しつつ、自らは明の臣としての節義を貫く決意を示した(弘光甲申九月十五日付、桐城の何亮工の起草によるものと伝わる)。

史可法、和議成らざるを奏す

  • 史可法は、清への使者が戻り和議が不成立に終わったことを報告、これまで賊の討伐に全力を注げなかった上に清への備えまで必要になったと嘆き、諸鎮が私怨を優先させることを戒め、戦うほかない現状を訴えた。以後も度々物資の補給を要請したが、幕僚が私的に金を集める一方で可法自身は倹約に徹し、軍需の不足に苦しんだと伝わる。