明季南略高傑論保江南 福王(弘光帝) 弘光元年 1645年
左良玉、馬士英の八罪を参ず
- 四月四日、寧南侯左良玉は挙兵し、馬士英の八つの大罪を列挙して弾劾した。要旨は、(1)先帝の定めた逆案を覆し「三朝要典」を復活させ、思宗の廟号を貶めた不忠、(2)官職の売買による綱紀の乱れ、(3)兵部を私物化し阮大鋮を登用し息子らに兵権を握らせた専横、(4)皇后選定を私利に利用した不敬、(5)上に俳優や美女を進めて徳を損なわせた罪、(6)阮大鋮を用いて政敵を弾圧した酷薄、(7)皇城内に私兵を潜ませ上の動静を監視した不臣、(8)皇太子(東宮)の真偽を恣意的に断じ幽閉した大逆である。良玉は、これらを理由に士英・大鋮の処刑を求め、既に兵を発したと通告した。
馬士英を討つ檄
- あわせて発せられた檄文では、馬士英の出自の卑しさや擁立の功を私物化した専横、阮大鋮ら奸党の重用と忠良の排斥、官職売買や淫らな女性の徴発など、具体的な悪行を列挙し、董卓や元載のような佞臣の末路になぞらえて天下の公憤に訴え、義兵による討伐の正当性を主張した。
又檄
- 別の檄文でも、馬士英が皇太子を偽物と断じ幽閉に追い込んだ経緯を「先帝の血筋を根絶やしにする陰謀」として非難、李沾の拷問や王鐸の断定を厳しく批判し、義士に共に天の仇を討つよう呼びかけた。この檄文は各地に伝わったが、南京では箝口令が敷かれ表立った反応はなかった。
左兵東下
- 四月五日、左良玉軍は九江・安慶を経て建徳に至り、東下を続けた。七日には東流に入り、「太子の密旨を奉じ救援に赴く」と各地に布告、士英らは京師を戒厳し、黄得功・劉良佐を防衛線から呼び戻し、劉孔昭・阮大鋮・方国安・朱大典に迎撃を命じた。
- 十四日、黄得功軍が長江に到着し待機。十五日、士英は水陸両軍を湖口方面へ進めるよう督促。十七日、士英は「大捷」を上奏し諸将に恩賞を与えたが、実際には揚州方面の情報が途絶える中、阮大鋮・劉孔昭による誇張報告だったとされる。五月一日、張捷が百官を率い祝勝の表を奉る茶番が演じられた。五日、黄得功が左軍と交戦し負傷、士英は靖国公を追封し太監王肇基を派遣して労った。
- 別伝によれば、左良玉は挙兵から数日で病没、子の夢庚が採石まで進んだが黄得功・方国安に敗れ、清軍接近の報を受け撤退したという。
許定国、高傑を殺す
- 許定国は歸徳府睢州の人で、かつて高傑が李自成配下だった頃に村を襲われ一族を殺されたが自身だけ逃れた過去を持ち、以後同僚となっても密かに恨みを抱いていた。傑が防河の重兵を歸徳に置き許定国と連携しようとした際、定国は睢州の防備の充実を口実に傑を招き入れる計略を仕掛けた。
- 前年十二月二十七日、傑は歸徳で定国に千金・幣百匹を贈り信頼を深め、正月十日に睢州で対面。十二日、定国は傑と部将八名・親兵数十名を宴に招き、酒宴の最中に傑の武具を密かに取り除き、深夜に伏兵で襲撃。傑は素手で奮戦したが討たれ、定国は自ら刀で刺し腹を裂いて先祖に捧げたと伝わる。従者の張縉彦・李昇は辛くも脱出、他の随行者の多くが殺害された。定国はその首を掲げて投降を呼びかけたが、傑の兵は中州出身者への報復に走り城内は大混乱となった。定国は清に降り平南侯に封じられ、清軍を招き入れ儀封まで進出させた。
- 史可法は傑への追恤を上奏、子の元爵と妻邢氏に軍の統轄を継がせるよう求め、部将李本深を提督に推挙。上は「興平(傑)には子がいる、勝手に他へ委ねるわけにはいかない」として衛胤文を監軍に、諸将を各地に配置した。黄得功はかねて傑と揚州駐屯を争っていたが、傑の死を機に揚州へ矛先を向けようとし、史可法が急ぎこれを鎮めた。劉良佐も傑の軍を吸収しようと画策、劉沢清・黄得功・劉良佐は連名で李本深の提督就任に反対する上奏を行った。最終的に左良玉・袁継咸の擁護もあり、傑には太子太保が追贈され、子の襲爵と厚い祭葬が認められた。
張縉彦、卜従善を薦む
- 二月、張縉彦は、固始・汝寧一帯の賊対応で王之綱が功を焦り失態を演じたことを報告、蕪湖の卜従善を「飛将」として登用し河北恢復にあたらせるよう推薦した。
史可法、李際遇の大清に降るを奏す
- 正月九日、史可法は、清の豫王が孟県から渡河し李際遇の手引きで進軍していることを報告、李際遇の清への内応が確実になったとして、高傑軍の後継部隊に開封・洛陽方面への進撃を命じるよう求めた。あわせて御史陳藎が招集中の貴州兵の早期到着を督促、清側の火器の供与も要請した。
史可法、退を求む
- 正月二十四日、史可法は、衛胤文からの権限一元化の指摘を受け辞意を上奏したが、上は慰留した。あわせて即位の年を「元年」と正しく称し、天への畏敬と賢者の登用、倹約と民への配慮、政務への精励を説いた。
史可法、軍資を論ず
- 二月十四日、史可法は、四鎮設置後も淮・揚のような徴税可能な地域と、廬・鳳のような徴税の乏しい地域の格差が黄得功・劉良佐らの不満の種になっていると指摘、淮・揚両関の税収を三者で均分する案を報告、河北への道が閉ざされている現状では税収も限られるとした。
史可法、泗州の将を奏す
- 三月一日、史可法は、泗州鎮将李世春の病没に伴い弟の李遇春への継承を提案、黄得功が浦口の将張天福を排除しようとした一件についても、高傑軍配下の将たちとの摩擦を避けるため遇春の起用を求め、上はこれを許可した。
史可法、北征の疏
- 四月一日、史可法は、督師としての苦衷を述べ、睢州の変(高傑の死)以降の混乱と揚州での軋轢に苦しみつつも、鎮臣胡茂貞を先発させ北征の準備を進めていると報告した。