明季南略先帝謚号 福王(弘光帝) 弘光元年 1645年

太子一案

  • 乙酉三月一日、皇太子と称する人物が金華から石城門を経て興善寺に入る。太監高起潜が呉三桂のもとから太子を連れ出し、各地を転々とした末に江南へ至った経緯や、鴻臚序班高夢箕が身柄を保護しつつ最終的に朝廷へ通報するに至った経緯が語られる。
  • 太子は当初丁重に迎えられたが、上は「真偽が定まらぬのに軽々しく扱うな」と激怒、世話をした宦官二名を処刑、高夢箕にも死を賜った。
  • 三月三日、阮大鋮の密告を受け馬士英が上奏、太子と従者を中城の獄に投じる。獄中でも太子は皇帝への礼を尽くし涙するなど、周囲の同情を集めた。
  • 五日、兵科戴英が「王之明という者が太子を詐称している」と上奏、六日から複数回にわたり大明門外・午門などで会審が行われた。旧東宮の講官劉正宗らが「本物なら知っているはずの事柄」を質したが、太子の応答は要領を得ず、最終的に王鐸が「千に一つも真とは思えない、これは偽である」と断じ、獄に送り返された。
  • 御史陳以瑞ら一部の官は民間の疑念(諸臣が先帝の血筋を陥れようとしているとの噂)を上奏したが、上は「王之明」を軽々に処刑せず慎重に扱うよう指示した。
  • 三月二十三日、劉良佐が童妃・太子両案について世論との乖離を懸念する上疏。二十八日、左良玉が東宮の保全を求める上疏を提出、呉三桂に真偽の証があり史可法もそれを知りながら黙している疑いを訴えたが、上は「これは訛伝であろう」と退けた。
  • 四月、工部侍郎何楷・湖広巡撫何騰蛟らも相次いで疑義を呈したが、いずれも聞き入れられず、上は「多くの官・民が既に見て判断している」として押し切った。史可法も面談を求めたが「西方の警報が急なので凱旋後に」と退けられた。

北の太子一案

  • 北京では、先帝の三子のうち行方不明だった皇太子・永王・定王を巡り別の騒動があった。ある男が中書周家を訪ね公主と抱き合って泣くなど、宮中の事情に通じた様子から本物との見方も出たが、内官の証言は一致せず、旧内官の楊某は詐って否認、逆に山西から来た「晋王」なる者が偽物と主張した。刑部郎中銭鳳覧は詳細な取り調べの末に本物と判断して上奏したが、内閣の謝陞は偽物と断じ、鳳覧は謝陞を面罵する事態に。市民が皇子救済を訴えて投獄されるなど混乱が続き、乙酉正月十日、清の摂政王は「真偽を問わず、これに関わった晋王・謝陞・鳳覧・市民らはすべて乱を起こした者」として処刑を命令。謝陞も間もなく病死。四月、鳳陽の民が皇子救出を企てるが鎮圧され、皇太子(と称された人物)は同月十日に死去した。
  • 銭鳳覧は、太子擁護の上疏で「幼少期と成長後の体格の違いを理由に偽物と断じるのは不当」「宮中の細事を全て記憶していないことをもって偽物とするのも酷」などと論じ、法吏の懐柔にも屈せず刑死した。南(弘光朝)ではその死が伝わると太僕寺卿を追贈し「忠毅」と諡された。

太子雑記(乙酉、続)

  • 二月十一日、管紹寧が皇太子に「献愍」、永王に「悼」、定王に「哀」の諡を提案。実際には定王は既に海で死没、皇太子(前述の南来した人物)は紹興に潜伏しており、上は密かに使者を送る一方、紹寧は諡を定めることで事実上その存在を否定する意図があったとされる。
  • 著者(東村老人)は、北京・南京・太平の三か所でそれぞれ皇子を名乗る者が現れたことについて、いずれも軽々に偽物と断じるべきではないとし、当時の対応の不自然さ(会審が長引いた末に王鐸一人の判断で決着したこと、拷問を用いず駕籠で獄へ戻したことなど)を指摘し、判断を保留するとしている。

童妃一案

  • 三月十三日、童氏という女性が旧妃と称し越其傑のもとから連行され、上は錦衣衛に監禁を命令。かつて福王が郡王・世子だった頃に娶った黄氏・李氏は早逝、乱後に童氏を妃としたが子は育たず離散していた経緯があり、太妃(生母)は既に南京にいたが童氏は上から召されずに自ら出頭した形となった。
  • 童氏は入宮の経緯を詳細に書き記して上訴したが、上は取り合わなかった。四月六日、上は「藩邸の事情に詳しい常応俊に確認させたが、童氏が皇嗣を産んだ事実はない」として太監屈尚忠に厳しい取り調べを命令。七日、取り調べに関連して庶吉士呉爾塤・中軍孫秀も逮捕された。
  • 諸説あり、劉良佐や馬士英は童氏を本物と見て迎え入れるべきと主張したが、上は認めず、拷問の末に童氏は獄死した。童氏自身が語ったとされる詳細な回想(河南尉氏県での出会い、許州での太妃との再会、一子を産むも夭折した経緯など)も伝わっている。

童妃続記

  • 別伝として、崇禎十四年に張献忠が福藩を破った際、世子(後の弘光帝)が城の吏員劉正学の助けで脱出し、各地を転々とした末に曹州の宿で童氏という女性の家に身を寄せた経緯が語られる。世子は後に潞王・崇王らと合流して南下、南京擁立に至った。
  • この伝によれば、太后の南下を助けた皮匠が伯に封じられたことに触発され、劉正学が河南から上京、童女の一件の真実を訴えたが聞き入れられず、翌年の南京陥落で童女・劉正学ともに行方知れずとなり、阮大鋮・馬士英も乱兵に殺されたと伝える(他の史料とは食い違いがあるため参考として記録するにとどめる)。

淑女を選ぶ(乙酉、続)

  • 十一月十二日、中宮の礼冠に三万金、通常の冠に一万金の予算が組まれた。十二月十五日、韓賛周がさらに六名の淑女を進呈。二十三日、礼部に広範な選定を命令、浙江嘉興府では選定官の急な訪問に住民が慌てて縁組みする大混乱となり、笑い話として語り継がれたという。
  • 四月九日、銭謙益が選定した淑女を元暉殿へ進呈。五月十日、清軍接近に伴い、経廠にいた三名の淑女は実家へ帰された。

三案・要典・逆案の重翻(続)

  • 乙酉正月、編修呉孔嘉が「三朝要典」の実態保存を主張。総督袁継咸は要典の再頒布に反対したが、上は「祖母・父の無実の誣告は雪ぐべき」として意に介さなかった。楊維垣は要典の重要性を重ねて主張、梃撃・紅丸・移宮の三案を巡る旧説を蒸し返した。
  • 二月から三月にかけ、逆案関係者への恤典・復官が相次ぎ、阮大鋮・楊維垣は東林・復社系官僚の粛清を目論むが、上流からの清軍接近の急報により大規模な粛清は沙汰止みとなった。四月、吏部尚書張捷が魏党系官僚多数の顕彰を上奏、多くが復官・追贈された。御史袁宏勲や監生陸浚源らが三案を蒸し返す動きも見られたが、光禄少卿許譽卿がこれに反論している。

災異(乙酉)

  • 乙酉元旦(乙酉日)に日食。正月六日、雷鳴による凶兆の占い。八日、立春に流星が紫微宮に入る。九日、大雷雨と雹。開封府栄沢県で幻の城郭が現れたとの奇談も伝わる。二月二十日、欽天監正楊邦慶が日月の異常な赤色を報告。三月二日、楊維垣の昇進を「馬・劉・張・楊、国勢速やかに亡ぶ」との風刺とともに記録。七月十三日、金星が昼間に見える異変(太白経天)、著者自身が知人から聞いた星占いの逸話や、南京での怪異な噂(驢馬が人語を発した、旌旗の星の出現を予見した学生の話など)を記録。崇禎十三年に五台山の僧が「新天子誕生、まもなく易代」と予言していたとの逸話も付す。

呉適、獄に下る

  • 四月二十一日、給事中呉適が方国安・牟文綬の軍紀の乱れ(無用な戦功による大将起用、無辜の民への被害)を弾劾したところ、蔡奕琛らが「左良玉の反乱に対応中の将を貶めるものだ」と反論、呉適は投獄された。実際には浙江での旧怨(蔡奕琛の弾劾に関与した経緯)による報復とされ、御史張孫振も呉適を東林・復社の一員として厳罰を求めた。

遷都召対

  • 四月二十六日、上が群臣に遷都の可否を問うが、礼部銭謙益が強く反対。左良玉軍の東下と清軍の急迫に上は動揺し、士英は貴州兵の入城と自身の貴陽への退避を提案したが工科呉希哲らの反対で中止。貴州兵千二百人が入城し僧房を荒らすなどの騒動が起きた。二十八日、上は「外では自分が逃げようとしていると噂されている」とこぼし、王鐸は言葉を濁して講義の延期を求めるなど、危機感を欠いた対応が続いた。

馬士英、駅報を笞つ

  • 四月二十七日、龍潭駅の斥候が清軍の渡河準備の報告をもたらすが、後に楊文驄からの砲撃成功の報が届くと、士英は先の報告者を打擲し、後の使者にのみ褒賞を与えた。以後、危機感が薄れ警報が届かなくなった。

馬士英、浙へ奔る

  • 五月十六日未明、馬士英は身辺整理もそこそこに家族・家丁百余人を連れて逃走、孝陵に立ち寄り自らの母を太后と偽って護衛の貴州兵を得ようとした。城内は君主も宰相も逃げたことを知り大混乱、宮中への略奪が起こり、百姓は貴州兵を恨みから殺害、最終的に忻城伯趙之竜が「この地は既に清に帰した」との布告を出し降伏の準備を整えた。士英の私邸は徹底的に略奪され、阮大鋮・楊維垣・陳盟の邸宅も同様の被害を受けた。

趙監生、太子を立つ

  • 五月十一日、趙という監生が民衆を率いて王鐸を捕らえ暴行し、先の「偽太子」に真の太子であることを認めさせようとする騒動が起こる。太子(と称された人物)自身がこれを制止し、群衆は彼を武英殿へ担ぎ上げて即位を演出、当日は珍しく晴天だったこともあり民衆の熱狂を呼んだ。布告文では先帝への哀悼と国難への憤りが語られたが、実権のある大臣らは事態を静観、数日後には趙之竜の判断で新王擁立は沙汰止みとなり、この人物も釈放された王鐸を含む旧官僚により処遇が定まらないまま推移した。李沾・張捷・楊維垣ら旧政権の高官はそれぞれ逃亡・自殺するなど混乱を極めた。

宋蕙湘の題壁

  • 弘光宮女の宋蕙湘(十四歳、金陵の人)が清軍に連行される途上、汲県の壁に望郷と身の上を嘆く詩を書き残したと伝わる。