明季南略先帝謚号 福王(弘光帝) 崇禎十七年 1644年

先帝謚号

  • 六月六日、大行皇帝(崇禎帝)に「思宗烈皇帝」、皇后に「孝節皇后」の諡を追贈。
  • 「大事紀」によれば六月二十三日に廟号「思宗」が定められたとするが、七月七日に諡号を天下に頒布する詔が発せられた。一方「甲乙史」は六月二十一日、忻誠伯趙之竜が「思」の字が不吉であるとして異を唱え(実際には無学な趙之竜が李沾に唆されて高弘図を貶めるための動きだったとされる)、後に「毅宗」に改められたとする。左良玉はこの改諡を「先帝を貶める馬士英第一の罪」と非難した。後に永暦朝では「威宗」、清朝では「懐宗」と諡された。

追尊帝后

  • 六月六日、福恭王を「恭皇帝」、その正妃を「孝誠皇后」、生母鄒氏を「仁寿皇太后」、神宗の貴妃鄭氏を「孝寧太皇太后」、上の元妃を「孝哲皇后」と追尊。
  • 六月十九日、懿文太子(建文帝の父)を「興宗孝康皇帝」、建文帝を「恵宗譲皇帝」、景泰帝(代宗)の帝号を回復。

封常応俊

  • 六月二十三日、福府千戸常応俊を襄衛伯に、青浦知県陳爊を中書舎人に、王鐸の弟王鏞・子王無党に世襲錦衣指揮使を授与。応俊はもと革工で、弘光帝の脱出行に際し雪中を数十里背負って救った功による。史料により「応俊」「自俊」の表記に異同がある。

太后、河南より至る

  • 七月六日、高弘図・姜曰広が城外へ聖母皇太后(鄒氏)の出迎えに赴く。馬士英の建言により、河南郭家寨に潜んでいた太后の存在を確認、密かに参将王之綱・王真卿らを李際遇のもとへ派遣し舟で護送させる手はずが整えられていた。
  • 八月十三日、太后が儀鳳門から入城、上が午門で出迎え。以後、戸・兵・工三部に急ぎの資金調達を命じ、御用の調度品に数十万両を費やす計画が立てられ、工部尚書何応瑞・侍郎高倬や工科李清が節約を訴えたが聞き入れられなかった。行宮が手狭なため西宮の造営が急がれた。二十日、聖母の南下の功により士英・可法に少傅・少保。二十三日、鄒存儀に大興伯。九月九日、迎接の功労者六名に蔭位。十月一日、太后の従者にも指揮の位。

太子雑記(甲申年内)

  • 六月十八日、劉沢清、皇太子が乱軍中で死去し定王・永王も北京陥落時に殺害されたとの伝聞を報告。八月二十九日、太子を密かに海路南下させたとされる太監高起潜が召見される(朝廷はこれを公にしなかった)。九月一日、朱国弼・趙之竜が太子・定王・永王への諡を提案(南来していた太子の存在を断ち切る意図があったとされる)。二十五日、袁妃(自害未遂で生存)と永王が旧知の中書周元振宅で再会したとの噂が広まるが、清側の内院謝陞の検分で偽者とされ投獄。十月二十七日、鴻臚寺少卿高夢箕が北から帰任し謝恩。十一月一日、太子が興教寺に潜伏との情報を得た高起潜が馬士英に密告し暗殺を図るが、太子は既に前日に渡江し逃れていた。十二月二十四日、管紹寧が太子の遇害を報告、翌年二月の服喪を提案。

大悲僧、楚王を仮称す

  • 十二月、南京の水西門外で一人の僧が自ら「今上の親王」と称しているとの通報があり、都督蔡忠が捕縛。僧は自ら「定王で、国変を機に出家し法名大悲」「潞王が賢明で天子にふさわしく、弘光帝は譲位すべき」と述べ、供述が要領を得なかった。取り調べの結果、実際は斉庶宗の詐称と判明し西市で処刑された。

淑女を選ぶ(甲申年内)

  • 八月二日、科臣陳子龍が、宦官による強引な女性の徴発が横行し法紀を乱していると批判。御史朱国昌も、無頼の徒が官の名を騙り女性を強制連行している実態を報告。二十二日、宦官らの横暴を戒める命令。二十六日、皇太后が中宮(皇后)の人選を主導することに。九月九日、黄氏・郭氏・戴氏を選出し再選を命令。十八日、韓賛周が大婚の準備を要請。工科李維樾は、宦官の強引な選定により民間で慌てて縁組みする混乱(自殺者まで出た)を報告。十月から十一月にかけ、杭州・各地での選定が続けられ、費用は数万両に及んだ。

三案・要典・逆案の重翻(発端)

  • 十二月二十二日、張捷が楊維垣の上奏を提出、旧「逆案」の不当性を訴え、劉廷元ら魏党関係者の名誉回復を求める動きが始まった。

災異(甲申年内)

  • 十月十一日、鳳陽で地震。十五日、鳳陽祖陵で一日三度の地鳴り。二十九日、東方に異様な光を放つ彗星(長庚星)が出現、旗や刀剣のような形に見えたと伝わる。十一月五日、鳳陽の被害が再度報告される。十一日、端門付近で火災。秋から冬にかけ異常な高温が続いた。