明季南略南都公檄 福王(弘光帝) 弘光元年 1645年
偽官処分(続)
- 正月十日、韓四維が岷府への使者だったため賊に汚されなかったと弁明し帰任するが、上は「四月中の派遣で着任前に陥落したはずだ、欺瞞ではないか」と疑いつつも留任を許可。工科は科挙での贈収賄(何瑞征・項煜らの公然たる売買)を告発。二十三日、蘇松按周元が、偽官を受けた楊枝起・宋学顕らの処分漏れを指摘、法司送りとした。
誅周鍾等
- 四月九日、従逆の光時亨・周鍾・武愫、および原武徳道僉事雷演祚・礼部主事周鑣を処刑。鑣と鍾は従兄弟で、共に世評高かったが阮大鋮と対立していた。士英は鍾の従逆を根拠に鑣も連座させ、演祚は大鋮への旧怨から標的にされた。光時亨は南遷議論を妨げた責任も問われ、四人と共に処刑された。
- 周鍾は嘉興の項仲展宅に潜伏していたが、逮捕に来た旧知の鄒浩に「行っても行かなくても死は免れない」と語って自ら出頭、南京の大中橋で処刑された。臨刑に際し「私を殺せば天下は太平になるのか」と述べたと伝わる。享年四十四。
新殿推恩
- 正月十九日、宮殿の改築を機に馬士英・王鐸・王応熊・史可法ら輔臣、尚書・侍郎・科道官に金幣を賜り、宦官韓賛周・盧九徳らにも褒賞と蔭位が与えられた。三月二十二日、殿工完成に伴い史可法・馬士英・王鐸ら、また内官の功労者にも加官・褒賞(顧錫疇のみ除外)。
朝政濁乱昏淫
- 前年十一月二十九日、上が病に倒れかけた際、輔臣が見舞う中で宦官らが密談していたと伝わる。上は酒色に耽り、宦官田成が最も寵愛され、賄賂による人事が横行、当時「金の刀は試すな、弓は早く張れ、田を求めれば録を得る」という風刺の言葉が流行った。宦官張執中(十九歳)が寵愛され、大臣も容易に近づけなかったが馬士英だけは通されたという。
- 大晦日、興寧宮で上が不機嫌になり、韓賛周が「新しい宮殿で祝うべき時に」と諫めると、上は「梨園(俳優)に良い者が少ない」とだけ答え、賛周は「せめて先帝を偲ばれるべきでは」と涙したと伝わる。
- 正月十二日、天財庫からの指示で宦官五十三人を召し演劇と酒宴、酔った上が旧院出身の少女二人を死なせ、密かに北安門から運び出し葬らせたという事件があり、以後も同様のことが繰り返され、遊郭の少女が払底したと伝わる。二十四日にも同様の宴が催された。ある夜、宮中で緊急時の鐘が鳴り外廷が騒然としたが、実は宦官たちが仮面芝居の準備をしていただけだったという笑えぬ逸話も伝わる。蘇州の医者鄭三山が卑猥な処方を献じて寵を得ていたことも記録されている。