明季南略南都公檄 福王(弘光帝) 崇禎十七年 1644年
南都公檄
- 崇禎十七年四月一日、南京の兵部尚書史可法、戸部尚書高弘図、工部尚書程注、都察院御史張慎言、兵部侍郎呂大器、詹事姜曰広ら南京在勤の文武大臣連名で、天地に誓い天下の臣民に義兵の蹶起・勤王・軍資の拠出を呼びかける檄文を発した。
- 檄文は、太祖以来二百七十余年の恩沢と崇禎帝十七年の勤勉な治世を讃えたうえで、天災・辺患が相次ぎながらも民への配慮を絶やさなかった先帝の徳を述べ、それにもかかわらず賊乱により北京が陥落し、宗廟・陵寝が汚された痛恨を訴える。安禄山や李希烈のような逆賊も必ず滅びた歴史を引き、漢の赤眉・銅馬の乱後の中興の故事になぞらえ、臣民が身分の別なく力を合わせ、義勇兵を組織し、あるいは軍資を献じて国難に殉じるよう呼びかけている。
陳函輝の討賊檄
- 在籍の兵部侍郎徐人龍・主事雷演祚も各地に檄を飛ばし、浙江台州道の傅雲龍、台州知州関継縉、通判楊体元、推官張明弼、知県宋騰熊、在籍の陳函輝らも義兵を誓う。臨川の曾益、呉群の諸生王聖風・徐珩らもそれぞれ檄文を発した。
- 陳函輝の檄文は、太祖以来の恩沢と崇禎帝の苦心の治世を讃え、北京陥落と先帝殉節への痛憤を述べたうえで、安禄山・李希烈ら歴代の逆賊がいずれも滅びた例を引き、漢の光武帝による中興や晋の重耳の故事になぞらえて、臣民一同が身分を問わず義憤に燃え仇討ちに立ち上がるべきことを説いている。
陳璧、賊必ず滅ぶ八事を論ず
- 戸部司務陳璧は、李自成軍が実際には戦功に乏しく、専ら流言による威嚇と偽りの寛大さで民を欺いてきたにすぎないとし、賊が必ず滅びる根拠を八点にわたって列挙した。要旨は、(1)占領後の略奪により民の恨みを買っていること、(2)入京後は財貨の強奪と恣意的な官吏登用に終始し大志を欠くこと、(3)民衆への収奪が過酷を極めていること、(4)賊将同士が互いに服さず内紛の兆しがあること、(5)上下の将が私利を争い統制が乱れていること、(6)略奪で私腹を肥やした兵が戦意を失っていること、(7)北京周辺の食糧が尽きかけていること、(8)呉三桂・清軍との衝突で既に大敗を喫していること、である。さらに、賊が占拠した地域は荒廃しており財政基盤も薄弱で、山東方面からの挟撃も可能であるとし、殄滅は時間の問題だと結論した。
張献忠雑記
- 六月一日、左良玉は「恢復多城疏」で、前年八月の武昌回復以降、江西・湖広方面での転戦の戦果を報告、袁州・平郷・万載・澧陵・長沙・湘潭・湘陰・臨湘・岳州・監利・石首・公安・隨州など次々に失地を回復したと述べ、督臣呂大器が兵を動かさないまま戦功を横取りしようとしていることを批判した。
- 湖広按察使黄澍は、張献忠が荊河口から渡河し荊州に入り、李自成配下の老回回勢力と合流の動きを見せていると報告。楚地方は献・闖両賊に挟まれ、往来路の確保が困難な状況にあった。
- 六月十三日、張献忠は涪州・瀘州を陥落、二十二日には仏図関を突破し重慶を四日間包囲の末陥落させ、老幼問わず全滅させる大虐殺を行い、生き残った壮丁の耳鼻や両腕を切って各地へ放ち恐怖を広める戦術をとった。巡撫陳士奇・推官王行儉も死亡、避難していた瑞王も一族もろとも殺害され、総兵趙光遠は降伏(後に馬士英が光遠への褒賞まで求めている)。八月五日には成都を包囲、九日に陥落させ蜀王一族と巡撫龍文光らも殺害された。
- 九月、御史徐養心は献・闖の連携による長江下流への脅威を警告、十二月には四川僉事張一甲が川中の惨状(重慶・成都の陥落、瑞王の死、多数の民の犠牲、李自成勢力の保寧招撫など)を詳しく報告、四川総督王応熊も両府からの過酷な徴収がすべて賊の手に渡ったことを嘆いた。
李自成雑記
- 七月十三日、李自成軍は雒陽を経て密県の李際遇の砦を攻撃。十八日には東昌に偽の「順」朝の布告が届き三十万の兵を動員するとの威嚇。十九日、闖賊が平陽で兵を整えているとの報告、太原・潞安の郷紳富戸が西安へ避難。二十日、偽将宋朝臣の軍が旧兵部主事郭献珂の反撃で潰走、朝臣は捕らえられ処刑された。八月二十八日、蕪湖の榷関銀が賊に奪われたと報告。十月二十一日、李自成軍は潼関を出て歸徳・裕州・郟県方面へ展開。十二月六日、陳潜夫が李自成軍の河南侵攻を報告。
偽官処分(甲申年内)
- 六月七日、丁啓睿が弟啓光らと計り歸徳府周辺の偽官七名を捕縛、京へ送ったと報告。済寧では李允和が偽官九名を処刑、開封推官陳潜夫や地方の義勇も各地で偽官を討った。四川では劉之渤が賊将を捕殺。功労者には総兵官の位が与えられ、陳潜夫は河南巡按御史に転じた。
- 十日、馬士英は、北京陥落時に多くの官が節を屈し賊に降ったことを痛烈に非難する上疏を行い、特に庶吉士周鍾の勧進の文言を挙げてその大逆を糾弾、一族の連座処分を求めた。
- 十二日、劉士楨、北から来た文武官はいったん本籍に戻し朝廷の処分を待つべきと提案、許可。十五日、山東での偽官討伐の功を叙勲。七月二日、山東での功を叙勲。八日、北京従逆諸臣を六等に分けて処分する方針。二十五日、劉孔昭が銭位坤の起用を推薦。
- 八月三日、旧巡撫何謙が北から逃げ帰る。四日、朱国昌が北京陥落時に賊に膝を屈した官吏の恥知らずな復帰工作を批判。八日、刑部の従逆処分案が軽すぎると上より叱責。九日、旧大同知府張璘然、戸侍郎党崇雅、祭酒薛所蘊を逮捕。二十日、偽太常丞項煜を逮捕。二十七日、御史王孫蕃・方以智が節を失いさらに偽書を著したとして方以智を逮捕。
- 九月一日、不正に世襲した王先通の処分を審議。十六日、浙撫任天成が偽命に染まった郷紳らを弾劾。十八日、田仰が光時亨を捕縛して連行。二十一日、劉沢清が南帰した従逆の臣への寛大な処分を求める。
- 十月五日、降賊の旧尚書張縉彦が河北での義勇組織と偽官誅殺の功を自陳、大学士王鐸の保証により北直・山西・河南軍務の総督に起用。十二日、御史胡時亨が、勲臣の口利きで従逆の官が復職している実態を批判。十五日、兵科が李祖述・朱元臣の偷生を批判。十九日、臨淮侯李祖述の逃亡を厳議、劉沢清が水営の監軍に黄国琦を推薦。二十日、史可法が北から帰った衛允文を高傑軍の監軍に推薦。
- 十一月五日、丁啓睿・丁魁楚が偽侍郎金之俊の関与する事案を報告し自ら処分を待つ。二十五日、御史沈宸銓が張縉彦・王永吉・何謙らを弾劾するが、縉彦・永吉は不問、他は法司送りに。二十七日、劉澤清が時敏の海外屯田策を推薦。
- 十二月五日、韓四維が賊に汚されなかったと自陳し復官(実際は賄賂で賊の司業職を得ていたと伝わる)。十一日、光時亨が弁明するも許されず。二十日、偽命を受けた李逢甲に太僕少卿を追贈。二十一日、解学竜が偷生諸臣への寛大な処分を求める。二十三日、解学竜が従逆諸臣を六等(磔・斬・絞・戍・徒・杖)に分けた処分案を上奏、朱国弼らがこれを甘すぎると弾劾し学竜は罷免、高倬が刑部尚書に。
辺鎮諸将
- 六月十三日、呉誌葵を呉淞鎮守に任命(京口で撫臣鄭瑄のもと守備に尽力した功による)。十八日、劉沢清が呂大器・雷演祚の弾劾を上奏、張捷・鄒之麟らを推薦。
- 十一日、陝西全陥の急報。馬士英が既に降賊していた趙光遠への褒賞を求める失態。十三日、済寧の回教徒兵朱継宗が副将楊樸一家を殺し自ら総兵を称する事件。十八日、鎮江に駐屯する北来の馬兵と浙兵の間で些細な諍いから大規模な衝突に発展、双方の死傷者や略奪騒ぎとなり、巡撫の出動でようやく鎮圧、上は関係将官を史可法軍前で処分させた。総兵黄斌卿を京口防衛、邱磊を山東鎮守に。
- 七月三日、四鎮に督輔への合流を命じるが応じず。五日、祁彪佳・黄斌卿を鎮江総兵、金聲桓を淮揚駐防に。六日、張鳳翔が邱磊に清軍急迫を伝え義勇と共に東昌を離れたと報告。九日、李際遇・劉洪起を総兵とし河南防衛に。十日、京営の制を北京に倣い再編、牟文綬らが各営総兵に任命、義勇募兵の功が評価された。御史陳藎、雲南での募兵に軍資三万金を投じる。二十六日、杜文煥を巡捕営提督に。
- 八月二日、蘇撫祁彪佳が鎮江の混乱と鄭鴻逵の移駐問題を報告。七日、左良玉に武昌開藩を許可。九日、王応熊に遵義開藩を許可。十五日、劉良佐を寿春に移鎮。二十八日、劉沢清が「進取の計」として数十万の兵と軍資の準備に一、二年を要すると慎重論を述べる。二十九日、鄭芝竜を南安伯に封じ、都司同知陳謙を福建へ派遣し軍情を協議、芝竜の兵六千を防衛に組み入れる。
顧錫疇、諡を請う
- 七月八日、礼部尚書顧錫疇は、文震孟・羅喩義・姚希孟・呂維祺の四名がいずれも忠節を尽くしながら諡典に浴していないと訴え、あわせて温体仁の不当な諡号の剥奪を求めた。上はこれを認め、文震孟に「文粛」、劉一璟に「文端」、賀逢聖に「文忠」、羅喩義に「文介」、姚希孟に「文粛」、呂維祺に「忠節」、蔡懋徳に「忠襄」(後に剥奪)、王寿一に「忠愍」の諡を授与、温体仁の「文忠」諡は一旦剥奪されたが後に復した。
北京殉難諸臣の諡
- 九月三日、北京殉難の文臣二十一名・勲臣二名・戚臣一名に諡・祭葬・蔭位を差等をもって授与。範景文「文貞」、倪元璐「文正」、李邦華「忠文」、王家彦「忠端」ら多数の名が挙げられ、南京に「旌忠」祠が建立された。殉節した諸生許琰にも翰林院五経博士が追贈された。あわせて劉理順・成徳・金鉉らの妻妾にも褒賞が与えられた。勲戚では新楽侯劉文炳「忠壮」、太監王承恩「忠愍」、総兵呉襄(呉三桂の父、遼国公を追贈)「忠壮」、周遇吉「忠武」など。
開国諸臣の諡
- 郢国公馮国用「武翼」、済国公丁徳興「武襄」、徳慶侯廖永忠「武勇」など、開国の功臣多数に諡が追贈された(七月から九月にかけて順次実施)。
建文朝死難諸臣の諡
- 方孝孺「文正」をはじめ、斉泰・黄子澄・張昺・鉄鉉・練子寧ら建文帝殉難の諸臣多数に諡が追贈された(十二月二十八日)。
正德朝死諫諸臣の諡
- 御史蒋欽「忠烈」など、正徳年間に諫言のため命を落とした諸臣に諡が追贈された(九月二十日)。
天啓朝死珰難諸臣の諡
- 左光斗・周朝瑞・周宗建・袁化中・李応昇「忠毅」、黄尊素「忠端」など、天啓年間に魏忠賢一派に殺された諸臣に諡が追贈された(九月二十日)。
先後補諡
- 沈子木「恭靖」、董其昌「文敏」、孫承宗「文忠」、于謙(臨安伯を追封)、陳於庭(少保を追贈)など、順次諡・恤典が追贈された。翌乙酉年春には顧起元「文荘」、劉源清「武節」の諡も追加された。
呉適、乱政の監司を弾劾す
- 十二月十三日、戸科呉適は、警報に際し逃亡しながら不正に復職した陳之伸、失地しながら経歴を偽り昇進した夏万亨、避戦の末に不正な官途を得た郭正中らを名指しで弾劾。あわせて勲臣趙之竜が従逆の陳爾翼を推薦したことを封駁、勲臣に部・科の人事権を侵させてはならないと主張。安遠侯柳祚昌の不当な人事推薦、懐慶知府郭儀鳳の勤王詐称、光禄署丞張星の不正な考選要求、保定侯・遂安伯の勲衛の不当な世襲請求、中書舎人張鐘齡の高位要求なども次々に封駁したが、実際の任用は阻止できず、結局は形骸化した。
熊汝霖、献・闖二賊を奏す
- 吏科熊汝霖は、張献忠が重慶に、李自成が成都に迫り長江下流への脅威が現実化している中、北使の交渉も進展せず、阮大鋮を「知兵」と評するなら実戦に当てるべきで、閑職に置くのは無意味だと批判した。
劉同升らを起用す
- 易応昌を都察院副都御史、郭維経を僉都御史に。葛寅亮・成勇・文安之・劉同升・趙上春ら、かつて楊嗣昌の奪情に反対し黄道周と共に退けられた清望の士が相次いで起用された。賀世寿を戸部督倉尚書、王志道・申紹芳も名誉回復のうえ起用された。
科道を考選す
- 遊有倫・朱統銓・趙進美・沈宸荃ら多数を科道官・部属官に選抜、張采・熊汝霖・章正宸も要職に補された。
高弘図、致仕を乞う
- 十月六日、大学士高弘図は、阮大鋮起用を巡る度重なる対立の末、四度目の乞休が許可され致仕。家産を全て乱で失い、幼子と共に僧寺に寄寓するなど困窮した晩年を送った。
鬮差
- 十一月三日、御史の任地決定に本来の序列(鉄板序差)を無視し、馬士英に取り入った胡時忠らがくじ引き(鬮差)による人事操作を画策、序列上位者を差し置いて任地を得た。
許都余党の再乱
- 八月十九日、浙撫左光先が義烏・東陽の許都残党の再乱を報告。撫按の対応(誘殺した経緯の是非)を巡り評価が分かれ、姚孫矩の苛政が乱の原因との批判もあった。祁彪佳は光先の対応を擁護したが、御史張孫振の弾劾により光先は最終的に罷免された。
馬士英、納銀を請う
- 八月十八日、馬士英は科挙受験生からの銀納(上戸六両・中戸四両・下戸三両)を提案、また廩生・増生・附生の貢生資格の銀納額も定め、さらに中書・待詔などの官職の売買まで制度化した。世間では「中書はどこにでもいる、都督は街に溢れている」といった風刺の言葉が流行り、著者は当時の腐敗ぶりを実見した記憶として記している。
五陵註略
- 十二月二十二日、書坊による「五陵註略」(許重熙の著、独自の史論を含む書)の流布が禁じられた。同書が劉伯温の渡江譚や功臣の襲封について異論を述べていたため、劉孔昭が激怒し、他の政争にかこつけて発禁と大獄を図ったが、上は許可せず本人を放免、書はかえって広く読まれるようになったという。