明季南略馬士英特挙阮大鋮 福王(弘光帝) 弘光元年 1645年
呉適、雲霧山の開采に異を唱う
- 乙酉二月六日、太監李国輔が雲霧山での採掘を願い出て許可されたことに対し、給事中呉適は、この山が徽・池から八閩に及ぶ広大な封禁地であり、険阻な地形と猛獣の生息、盗賊の温床となってきた歴史(正統年間の鄧茂七の乱の例)を挙げ、開発の不便(地形の険しさ、輸送の困難、財政負担、民心の動揺、盗賊の再燃、皇陵の地脈への影響)を七点にわたり列挙して反対した。国輔自身も撤回を願い出たが許されず、現地視察の結果、開発は中止された。国輔は司礼太監韓賛周の養子で公正な人物として知られ、馬士英に疎まれていた人物であった。士英はこの一件を口実に国輔から勇衛営の統率権を奪い、自らの子馬錫に与えたという。
萬元吉、疆事の疏
- 太僕少卿万元吉は、江北監軍として赴任するにあたり、先帝時代の政治が「寛」と「厳」の間で極端に振れ続けたことが混乱の一因だったと分析、寛厳の均衡を保つべきと説いた。孫伝庭の出兵や呉三桂の関寧撤退を巡る当時の議論の失敗例を挙げ、事後の非難だけでなく事前の均衡ある判断の重要性を訴えた。
萬元吉、禦寇の全疏
- 万元吉は、賊軍が秦から東南を窺う情勢を分析し、江北の兵民の間に積もる不満が事態を悪化させる恐れを指摘、朝臣が功名を争うばかりで実際の備えを怠っていることを戒め、公忠共済の姿勢を訴えた。
萬元吉、累朝闕典未行の疏
- 万元吉は、上が孝陵参拝の際に懿文太子(建文帝の父)の陵にも詣でたことを賞賛し、「建文実録」の編纂と懿文の尊号・祭祀の回復を提言、また靖難の際の殉節諸臣や北京陥落時の殉節者への諡・蔭位の追贈を求めた。
萬元吉、死節諸臣を恤するを請う疏
- 万元吉は、四川で共に賊討伐にあたった総兵猛如虎、参将劉士傑ら戦死者の功績、南陽での猛如虎の壮絶な最期、監軍副使曹心明の労苦による病没、旧督趙光抃の非業の死などを具体的に挙げ、いずれも顕彰されていない現状を訴え、速やかな旌恤を求めた。