明季南略馬士英特挙阮大鋮 福王(弘光帝) 崇禎十七年 1644年
馬士英、阮大鋮を特挙す
- 阮大鋮は元太常少卿で魏忠賢派として崇禎帝により「逆案」に定められ禁錮されていた人物。馬士英の科挙時代の恩師にあたり、廃されてからは南京で劉孔昭・馬士英らと親交を結んでいた。士英は宣大巡撫時代に総監王坤の罪に連座、周延儒再任時には大鋮とともに賄賂で復官を図ったが世論の反発で果たせず、崇禎十五年四月に辛うじて兵部左侍郎・鳳陽提督に起用されていた経緯があった。今回、士英はその恩義に報いようとし、劉孔昭の朝廷での騒動もこれに絡んでいた。
- 六月六日、士英は「知兵の才ある阮大鋮の旧罪を赦し兵部右侍郎に補すべき」と上奏、高弘図が不在の隙に自ら擬旨して即時召見とし、朝廷を騒然とさせた。
- 八日、高弘図は「登用するにも九卿による会議を経るべき」と主張、士英は「会議すれば必ず用いられる」と応じたが、宏図は「賄賂を受けたわけでもないなら公議に委ねればよい」と反論、士英は色をなした。宏図は辞意を示し、姜曰広も「先帝十七年の定めを覆すのか」と嘆く辞表を提出。
- 九日、士英は大鋮を弁護し「魏忠賢の逆は闖賊とは異なる」と主張、高弘図・姜曰広・呂大器らを激しく非難。
- 十一日、給事中羅万象は「大鋮は実際には兵を知らず、召見までは許しても再用は禁じるべき」と上奏。御史詹兆恒も「先帝が定めた逆案を覆すことは天下の忠義の士の心を挫く」と諫めた。
- 十三日、呂大器・郭維経も相次いで反対、「逆案」を覆せば「実録」編纂にも矛盾が生じると訴えた。
- 十四日、兵部郎中尹民興、「逆案の阮大鋮を用いれば天下の跋扈する将をどう抑えるのか」と批判。
- 十七日、御史左光先は、大鋮が自分の兄光斗ら殉難の士を死に追いやった逆党と通じていたことを指摘し反対。
- 十八日、詹兆恒が逆案の原本を提出、御史陳良弼も翻案に反対したが、常延齢・万元吉・王孫蕃らの反対も聞き入れられず、上は士英を慰め逆に諫言した科道官を叱責した。史料によれば大鋮は召見の際「聯絡・控扼・進取・接応」の四策と長江防衛策を説き、意に適って江防兵部尚書に任じられたと伝わる。九月一日、柳祚昌の督促で大鋮に兵部右侍郎が追加され、以後朝臣の異議は封じられた。
黄澍、笏で馬士英を打つ
- 黄澍は徽州の人で、左良玉軍を監軍する御史として知られた。六月二十日、承天守備太監何誌孔と共に入朝し、馬士英の権奸ぶりと誤国を涙ながらに直言、上は感銘を受け高弘図に「黄澍の言はもっともだ」と述べた。何誌孔も加勢して士英の罪を訴えたが、太監韓賛周は「宦官が政事に口を出すのは体面を損なう」として誌孔を退けた。士英が跪いて処分を求めると、澍は笏でその背を打ち「奸臣と共に死ぬことを願う」と叫んだ。上は無言のまま澍を退出させ、密かに韓賛周へ「馬閣老は自ら身を引くべきだ」と諭した。
- しかし士英は病と称して一時退いたのち、福王旧邸の宦官田成・張執中に金品を贈り「馬公がいなければ皇上は即位できなかった、追放すれば天下は皇上を恩知らずと評するだろう」と説かせ、上は結局士英を呼び戻した。何誌孔はかえって庶民に落とされ、「奸を許すには田を種えよ、口を噤むには馬に構うな」との風刺の歌が流行ったという。
黄澍、馬士英の十大罪を論ず
- 黄澍はさらに上疏し、馬士英に「斬るべき十の罪」があると弾劾した。要旨は次のとおり。(1)鳳陽祖陵の地を軽々しく離れ兵権のみに専念した不忠。(2)総督在任中の安逸を誇張し労苦を偽称する驕り。(3)献賊・闖賊討伐を怠り出兵範囲を出ずに戦機を逃した失政。(4)賊将周文江の内通を黙認した通賊の疑い。(5)偽の戦利品で戦功を偽装した欺君。(6)「馬士英を殺さねば天下は治まらない」との巷説が立つほどの人望喪失。(7)逆案の阮大鋮を強引に復官させようとした造反の疑い。(8)軍餉を私し将士の窮乏を招きながら恩を独占する招搖騙詐。(9)長江防衛を怠り私邸の防備ばかり厚くする不道。(10)祖宗と万民の双方に背いた大逆。以上を理由に、士英の官職剥奪と厳正な処分を求めた。
黄澍、朝を去る
- 七月二日、黄澍は承・襄方面の恢復業務のため楚へ赴くよう命じられた。度重なる弾劾疏の末、朝廷は結局澍を遠ざける形をとったが、これは澍が左良玉の武力を背景にしていたためであり、士英が澍を厳しく処断できなかったのも同じ理由からだったと評される。
- 七月二十二日、澍は自らへの誣告に反論する上疏を提出、周文江の内通の証拠や、部下劉僑の贈賄を退けた自らの潔白を主張した。九月二十六日には楚宗朱盛濃が澍を誣告し、士英はこれを喜び盛濃を昇進させ、澍の逮捕を命じたが澍は応じなかった。十月八日、澍は改めて弁明の上疏を行った。士英の権勢は結局南楚の澍には及ばず、翌年の左良玉挙兵の伏線となったとされる。
- 附記として、翌乙酉年、清軍が徽州に迫った際、澍が地元出身の地の利を用いて清の騎兵を密かに手引きし、閩の宰相黄道周の軍を背後から崩壊させたとの逸話があり、徽州の人々はこれを激しく非難したという。後に澍は福建で鄭成功の家族を襲う謀に関わり失脚したと伝わる。
朱統㸄、姜曰広を誣詆す
- 七月二十六日、南昌建安王府の朱統㸄が上書し、大学士姜曰広の擁立時の異心を誣告、史可法・張慎言・呂大器らも巻き込んだ。これは馬士英が可法の擁立の功を独占しようとし、劉孔昭が田仰の専任を図る思惑から仕組んだ策謀で、実際の草稿は阮大鋮が書いたとされる。高弘図は「究治」の裁定を上奏したが、上は「統㸄は我が一族だ」と重い処分を退け、宏図の可法召還提案も退けた。
- 二十九日、統㸄は改めて姜曰広を謀反として弾劾、高弘図・姜曰広は共に病を理由に閉門。礼科袁彭年・通政司劉士禎らが統㸄の行為の不当性を訴えたが聞き入れられなかった。劉沢清の四鎮公疏も姜曰広・劉宗周を危険人物として糾弾、統㸄も雷演祚・周鑣を攻撃、これも阮大鋮の草稿によるものだった。士英はこれを利用し高弘図・姜曰広を追い詰めた。陸朗・黄耳鼎も姜曰広・徐石麒・劉宗周を結党として攻撃、三者は相次いで辞任した。戸科呉適が留任を求めたが聞き入れられなかった。
熊汝霖、異同恩怨を論ず
- 吏科熊汝霖は、朝廷の議論が「兵餉戦守」ではなく「異同恩怨」の私争に堕していると批判、姜曰広のような忠臣を根拠なく追い落とす動きや、廠衛(特務機関)復活の噂による人心の動揺を憂え、先帝の失政を繰り返さぬよう訴えた。上は「不敬」として俸給三月分の罰を科した。
呉適、維新五事を陳ぶ
- 呉適は、(1)詔旨の一貫性の確保、(2)人材登用の厳正化、(3)文武両用の人材育成、(4)陥賊官への処分の明確化、(5)六科の言責の実質化、の五点を提言したが、上奏は取り上げられなかった。
馬嘉植、国本を立つることを陳ぶ
- 吏科馬嘉植は、思宗の梓宮改葬、国母(母后)の迎養、東宮・二王の捜索、燕山諸陵への祭告を求め、贅沢を戒めるよう進言した。
賀世奇、刑賞を慎むを言う
- 刑部侍郎賀世奇は、呉三桂のように実戦で功を挙げた者にこそ爵位を与えるべきで、口先だけの忠義や擁兵傍観の将に過分な恩賞を与えるべきでないと諫めたが、格別の反応はなかった。
李謨、明臣の誼を奏す
- 国子監典籍李謨は、擁立の功を誇張して鎮将に軽々しく爵位を与えることを疑問視し、後漢の鄧禹や唐の郭子儀の故事を引いて謙譲の重要性を説いた。
陳子龍、忠益を広め名器を慎み賢を用いて二にせざるを請う
- 兵科陳子龍は、かつて黄道周の冤罪を訴えて処罰された塗仲吉・祝淵らの義挙を讃え、忠義の士の登用を提言(後に塗仲吉・諸永明は翰林院待詔に任じられた)。また、擁立の功に乗じた爵位の乱発を戒め、劉宗周のような硬骨の臣を疎んじることなく重用すべきこと、人事の公正な運用を求めた。上奏は聞き入れられなかった。
姜曰広、中旨を論ず
- 姜曰広は、歴代の悪例(周延儒・温体仁ら奸臣、陳新甲ら不正な部臣、李国楨ら南遷を妨げた勲臣、王樸・倪寵ら無能な大将、史某・陳啓新ら貪婪な言官)がいずれも会推を経ない「中旨」による任用から生まれたことを指摘し、上に「大学衍義」「資治通鑑」などを繙き、周宣王・光武帝の中興と東晋・南宋の偏安の違いを学ぶよう勧めた。
呉適、憂勤節愛を請う
- 戸科呉適は、国恥が雪がれず陵墓も荒廃したままの現状を憂い、上が経筵に励み倹約を旨とし、無用な徴発を止めて災害地への配慮を厚くするよう求めた。
沈胤培、中宮を立て経筵を挙げ朝儀を定めるを請う
- 礼科沈胤培は、皇后の冊立、経筵の実施、朝儀の整備を求め、宮中で「資治通鑑」等を学び治乱の跡を知るべきと進言した。
章正宸、銓政を論ず
- 吏科章正宸は、擁立の功に乗じた官位の濫発、人事権が吏部以外にも分散している弊害、封疆の失策を犯した者への処罰の甘さ、廃官の安易な復職を指摘した。
宋劼疏略
- 監軍僉事宋劼は、臣民が江南の安泰に安住していることを戒め、時を惜しんで奮起すべきと説いた。
祁彪佳、三弊政を革めるを請う
- 御史祁彪佳は、詔獄・特務機関による摘発・廷杖という三つの弊政の歴史的経緯を述べ、いずれも本来の祖法になかったものとして厳しく禁止するよう求めた。
袁彭年、廠衛を革めるを請う
- 八月七日、礼科袁彭年は、東廠・西廠の歴代の弊害(成化・正徳・天啓期の混乱)を挙げ、廠衛の存廃が世の治乱に直結してきたと論じ廃止を求めたが、上は「狂悖にして名を売る行為」として袁彭年を三級降格・浙江按察司照磨に左遷した。
陳子龍疏略
- 十八日、兵科陳子龍は、即位後すでに二十日が経つのに緊張感を欠いた朝廷の空気を憂い、武臣への安易な譲歩が政令全体の弛緩を招いていると警告した。
史可法、征辟を行うを請う
- 史可法は、江北四鎮の設置は偏安のためではなく北伐・恢復の基盤づくりであるとし、有能な地方官の不足を補うため、通常の科挙・銓選によらない「征辟」制度(各地の推薦による人材登用、二年の考課で栄転、三年で京官登用)の導入を提言した。
李清、国用支えざるを奏す
- 工科李清は、秦・晋は賊に、燕・代は清に、兗・豫はほぼ失われ、閩・広からの上納も乏しく、徽・寧・常・鎮も既に疲弊しており、実質蘇・松・江・浙のみで全軍を支えている財政の窮状を訴えた。
張捷、民心国運を論ず
- 十月十五日、張捷は、先帝晩年の民心・軍心・士心・官心の荒廃はすべて朝廷内の腐敗から生じたものであり、賄賂の横行、科挙の私物化、貪官汚吏や豪紳・驕兵による民への収奪が積み重なった結果、民心が離れ国運が傾き先帝の悲劇を招いたと論じた。
吏科、計典を奏す
- 二十六日、吏部某は、官職の頻繁な異動と賄賂による猟官が横行している現状を批判、官吏考課の形骸化を憂えた。
呉適、日講・午朝二事を陳ぶ
- 十月一日、戸科呉適は、日講の定例化と午朝の実施を求め、閣部大臣や台諫官が定期的に上に接し民情や功罪を報告できる体制を整えるべきと訴えたが、取り上げられなかった。
遊有倫、国事淆乱を奏す
- 十一月二日、御史遊有倫は、朝廷内で礼義廉恥が失われ、正論を唱える者が誹謗によって排斥される風潮を批判した(この頃、黄耳鼎・陸朗・朱統㸄らの弾劾により姜曰広・徐石麒・劉宗周が相次いで去っていた)。
銭増、劉家河を浚うを請う
- 戸科銭増は、蘇・松・常・鎮・杭・嘉・湖七郡の水利が太湖を中心に劉家河(婁江の下流)に依存している構造を説明、劉家河の土砂堆積による排水不良が旱害と水害の双方を招く危険を指摘し、浚渫を求めた。蘇松巡按周元泰・工部主事葉国華も同様の浚渫を求めた。
史可法、官の多くして益なきを奏す
- 史可法は、江北に四鎮・督師・撫按・屯撫・総督と多数の職が並立しながら実効が上がっていない現状を嘆き、揚州に集まる督督・提督・塩科などの重複した機構が府県の負担となり、新たな監督の追加が商人への搾取を招いていると訴えた。