明季南略議立福藩 福王(弘光帝) 崇禎十七年 1644年
福王擁立の経緯
- 四月三日、潞王・周王らは淮上に宮眷を伴い避難していたが、福王は従者数名のみで流浪していた。鳳陽総督馬士英が密かに人を遣り、淮撫路振飛の船で南へ導かせた。
- 十四日、北京陥落と思宗殉節の確報が南京に届き、朝野は動揺。史可法・張慎言らが高弘図邸に集まり誰を推戴すべきか協議。姜曰広は福王を推すが、史可法は「藩にあって不忠不孝であり天下を治めるには不向き」と難色を示し、結論が出ず散会。
- 二十一日時点でも新主は定まらず、人望は潞王に集まっていた。高傑・劉沢清が路振飛に意見を求めると、振飛は「賢を選べば争いが起き、親を選べば一つに定まる。今は福王しかいない。もし自分が動けば淮・揚の防備が崩れる。この功は開国の元勲に譲るべきで、南京での議定を待つべきだ」と答えた。
- 南京の文武大臣は魏国公徐弘基邸に集まり討賊と推戴を協議。恵王・桂王は遠方で参加できず、潞王・福王・周世孫は淮安に避難中だった。馬士英は福王の凡庸さを利用できると見て劉孔昭・劉沢清を抱き込み擁立を主導、史可法・呂大器に福王擁立を迫るが、両者は難色を示す。
- 二十二日、可法は浦口で軍務にあたる。二十六日、高弘図・姜曰広・李沾・郭維経・劉孔昭・太監韓賛周らが順に参見し勲臣に涙して迎立を懇請するも当初は固辞、「封疆の大計は諸公にお任せする」と述べるにとどまる。
- 五月一日、福王が三山門から上陸、孝陵に参拝、懿文太子の陵にも詣でる。朝内での会議では、潞王のほうが血統として近いとする異論や福王自身の素行を懸念する声もあり結論が出ずにいたところ、李沾が「異議を唱える者は死をもって殉ぜよ」と一喝、劉孔昭・韓賛周がこれを支持し推戴が決定。福王を廟に告げ、武英殿を整えて公啓により王を迎えることとした。史可法は江上督師のためこの場に不在だった。
- 四月二十七日、南京礼部が儀真で福王を出迎え、二十八日には徐弘基らが浦口で出迎え、二十九日午刻に燕子磯に舟を泊め、三十日に南京の諸臣が舟中で謁見。王は質素な身なりで従者も困窮していた。王は「国母(生母鄒氏)の消息もなく、宮眷も一人も伴っていない。当初は浙東の僻地に避難するつもりで、迎立など思いも寄らなかった」と答えた。正陽門から入城し武英殿等を巡り、内守備府を行宮とする。文武百官が拝謁すると王は恐縮して避けようとしたが、史可法が「殿下は正式にお受けになるべき」と促し四拝の礼を行った。この日、両星が太陽を挟む「両星夾日」と五色の雲が現れたと伝わる(吉兆とされたが、実際には清の摂政王が燕京入りした頃であり、後世から見れば清朝の瑞兆だったのではないかとも評される)。
福王登極
- 五月二日、南京の諸臣が行宮で福王に謁見。靈璧侯湯国祚が戸部の軍餉未発を憤って訴えると、太監韓賛周がこれを叱り退ける一幕もあった。呂大器・祁彪佳・李沾らが綱紀粛正と早期の即位・年号制定を進言、王はこれを了承。
- 群臣は内守備府で監国と登極の順序を協議、まず監国から始めることで一致。張慎言は即位を主張したが、史可法は「太子の存否が不明なうちに即位すれば、もし北方の勢力が太子を擁して来た場合に困る」と慎重論。祁彪佳は「まず監国とすることで王の謙譲の徳が際立ち、討賊の大義名分も保て、江北諸将の推戴も得やすい」と説き、これが採用され、金で「監国之宝」の印を鋳造。
- この日、諸大臣が改めて即位を勧めるが、王は「忠孝を本とする身として、仇討ちも果たさず親の安否も分からぬまま即位はできない。太子や永王・定王が賊中にいる可能性もあり、桂・恵・瑞の三王もいる。皆で賢を選んで迎え立てるべきだ」と涙して固辞。それでも群臣が重ねて勧進し、王は「暫く監国を領する」ことを承諾。
- 三日、百官朝服にて告天の礼を行い(祝文が空に舞い上がり瑞兆とされた)、王は「監国之宝」の印を受ける。当初は数日後の即位を求める声もあったが、祁彪佳が「監国から間もなく即位すれば人心が服さない」と反対し延期した。
- 十一日、三度目の勧進を受け王は登極を承諾、十五日辰刻に武英殿で即位し、翌年を「宏光元年」とする詔を発した。
宏光詔書と国政二十五款
- 即位の詔では、太祖以来の天命と大行皇帝(思宗)の勤倹の治績を讃え、賊乱により北京が陥落し先帝が殉節したことへの憤りを表明、天下の仇を討つ決意を述べたうえで、翌年を宏光元年とし大赦を行うと宣言した。
- あわせて示された国政二十五款の要旨は次のとおり。(1)在京文武官の一律加級と在外督撫等への同様の措置。(2)前朝の功臣で顕彰が不十分な者への諡・蔭位の補完。(3)在籍の閣老・六卿経験者への処遇改善と、罪により流刑・閑職にある者の復職審査。(4)流寓の諸藩王の安置先の選定。(5)在京宗室への俸給の定時支給。(6)公侯伯の生存者への俸禄優遇。(7)功臣子孫への蔭位。(8)高齢者への旌表と養老米の支給。(9)忠義殉難者への恤典。(10)科挙で不当に除外された挙人の再受験許可。(11)廩生の恩貢選抜の徹底。(12)赴京の挙貢生の年限緩和。(13)換授・保挙等の不正任官の停止と正規出身者の登用。(14)在野の逸材の推薦制度整備。(15)北方諸省から南下した官生の登用・就学の便宜。(16)陥賊官の帰順・立功による赦免。(17)銭糧の一部蠲免(地域ごとに差等)。(18)漕糧の永折制度の是正。(19)不動産取引の税契の適正化。(20)屯田開墾者への升科優遇。(21)既済贓罪案件の減等。(22)在監囚人の情状による減刑。(23)訴訟における不当な財産刑の禁止。(24)上供柴炭調達の適正化と商民への負担軽減。(25)大赦の徹底周知と不正防止。
- 発布は崇禎十七年五月。当初、赦免範囲を巡り史可法は「天下の半ばが失われ正税が限られる中、軍餉の負担を考えると全免は難しい」と慎重だったが、二十二日に淮撫路振飛が民間に詔書を頒布すると新旧の銭糧免除の条項もあって民は歓喜した。
会推閣臣・冢宰と諸臣の登用
- 五月二日、吏部を代行する史可法が閣員・冢宰の人選を協議、旧例では五府(勲臣)は加わらないところ、この時は不和を懸念して共に議した。史可法・高弘図・姜曰広が宰相格に推され、冢宰は張慎言に決まる。劉孔昭は自ら入閣を望むが、可法が「本朝に勲臣が入閣した例はない」と拒否、孔昭は「馬士英ならよいのか」と反発。起用議論では劉宗周・徐石麒らが推される一方、孔昭は阮大鋮を推薦するが、可法は「先帝が定めた逆案の人物」として却下。
- 三日、馬士英が高傑らの兵十万を背に南京へ迫り、諸臣に圧力をかける。結果、史可法・高弘図・馬士英が東閣大学士、張慎言が吏部尚書、周堪賡が戸部尚書、姜曰広・王鐸が東閣大学士に推され、高傑・劉沢清の書状は可法に渡江を促し実権を士英へ譲らせようとするものだった。
- 以後、六日から二十九日にかけて、呂大器の吏部転任、練国事・賀世寿・何応瑞の各部侍郎起用、劉宗周の左都御史復帰、顧錫疇ら旧臣の起用、都給事中・給事中の任命、張国維の戎政協理復帰、徐石麒・解学竜・張有誉らの起用、韓賛周・盧九徳の宮中要職就任、馬士英の兵部掌握(史可法はこれを避け自ら江北督師を志願)、田仰の淮揚巡撫起用、勇衛営の設置、翼戴の功臣への恩賞、陳子壮の礼部尚書起用など、次々に人事が行われた。李沾と張慎言の間では推薦を巡る確執も生じた。
史可法「四鎮設置」の建議
- 五月十二日、史可法は江北の防衛のため淮・揚・泗・廬を自守の要とし、徐・滁・鳳・六を進取の拠点として、黄得功・高傑・劉沢清・劉良佐の四将をそれぞれ藩鎮として配置する構想を上奏。黄得功は既に伯に封じられており、他の三将も伯に、荊襄回復の功があった左良玉は侯に、馬士英・盧九徳にも功に応じた恩賞をと提案。
- 十七日にはさらに具体案として、督師を揚州に置き、劉沢清(東平伯・淮北方面)、高傑(興平伯・徐泗方面)、劉良佐(広昌伯・鳳寿方面)、黄得功(靖南侯・滁和方面)にそれぞれ管轄州県と討招の任務を割り当て、各鎮に監軍を置き、軍民・州県・旧兵を統轄させる案を上奏。開墾・徴税権も付与し、兵三万・本色米二十万石・折色銀四十万両を各鎮が自弁するとした。全体の歳入見積りは米約二百四十万石・銀五、六百万両とされた。
黄得功
- 黄得功は屈強な体躯の武人で、若い頃はロバ引きを生業としていた。ある時、貴州の挙人楊文驄・周祚新を送る途中、山賊六人に襲われるが、驢馬と荷物を片手ずつ抱えて突進し山賊を圧倒、義気に感銘した山賊が拝伏して去らせた。楊・周両人はその豪傑ぶりを見込んで兄弟のように遇し、後に馬士英へ推薦。士英が縁組と武術教育を施し、鳳陽赴任時に旗鼓として登用、以後流賊討伐で功を挙げ副総戎まで昇進した。黒い驢馬に乗り「黄大刀」と恐れられ、廬・鳳一帯に賊を寄せ付けなかった。
- 大学士蔣徳璟によれば、他の三鎮の将が宰相への礼を簡略化する中、得功だけは旧制どおり跪拝の礼を守ったといい、忠義と旧恩への律義さが評された。宏光期、史可法との謁見でも旧制の戎服庭参にこだわり、高傑・劉良佐らもやむを得ずこれに倣ったという。
- 貧しかった頃、飼っていた鴨が減り続けるのに怒り池の水を汲み尽くして巨大な鱔(うなぎ)を捕らえて食べたところ体格が急変し怪力を得た、という逸話や、三十頭の猟犬を従え百発百中の射撃を誇り「小由基」と呼ばれた話、大酒豪だったが戦場では冷静に指揮した話などが伝わる。揚州郊外での高傑軍との衝突では、当初劣勢だったが弟の黄蜚らの加勢で盛り返し、高傑の猛将「黒虎子」を討ち取ったという。
- 儀真の屋敷にまつわる「必ず封侯の者が住む」との人相見の予言が実現した逸話、貧しい頃に世話になった老女を実母のように敬い盛大に葬った逸話、若い頃に助けてくれた「有褲」という兵卒への厚遇の逸話なども伝わる。
劉沢清
- 劉沢清は色白で美貌の総兵官。崇禎年間、青州・登州方面での開鉱を提案するなどしたが、甲申二月に彰徳へ移鎮、賊の急迫に際し呉三桂・唐通とともに入援を命じられるも応じず、三月には兵科韓如愈を殺害するなど命令違反を重ねた。山東総兵として偽りの戦功を報告し賞を得るなど不実な行いが目立ち、南下の際は各地を焼き払い略奪した。三月十六日には方・魏両大学士の推薦にもかかわらず封爵を保留された。五月十二日には数百人で瓜州を掠奪、淮安では路振飛・王燮の防備を崩し義士を追い散らして駐屯、田仰と享楽に耽った。清軍南下時には「福王擁立の功で休息を得ており、事あれば江南の一郡へ移るだけだ」と嘯いたという。八月には淮安に豪奢な邸宅を築くなど北伐の意志を示さなかった。
- また、叔父にあたる副総兵劉孔和(旧大学士劉鴻訓の子)を、些細な諍いを口実に処刑し、その配下二千人も皆殺しにするなど、凶暴な性格でも知られた。
劉良佐
- 劉良佐は大同左衛の出身。もと李自成配下で高傑と共に働いていたが、傑の投降に続いて自らも投降。崇禎十四年には賊将袁時中の数万の軍を撃破するなど功を挙げ総戎に至った。まだら模様の馬に乗ることから「花馬劉」と呼ばれた。無名の頃、督撫朱大典に見出され軍功により抜擢されたという。甲申六月六日に臨淮に開鎮した際、地元士民の反発や反乱の動きがあり、撫按による調停が図られた。
高傑
- 高傑は米脂の出身で、もと李自成の先鋒だったが自成の後妻邢氏と通じたことが露見するのを恐れ、共に投降し賀人龍配下に属した。孫伝庭の秦中督師の際には白広恩と先鋒を争い、不和から潼関防衛が崩れる一因となった。
- 甲申春、李建泰軍への合流を命じられるが果たさず、山西・河北を経て南下する途中各地で略奪。揚州包囲、江北での大掠奪など乱暴が続いた。太僕少卿万元吉は、揚州などでの民衆と兵の衝突を憂い、城外の民を城内へ移し空き家に整然と兵を宿営させる方法を提案し、史可法軍でも同様の宿営表示による混乱防止策が実施されていたという。
- 揚州の郷紳鄭元勲が高傑軍との融和を図り撫臣黄家瑞に城内受け入れを説いたが、民衆は高傑軍の暴虐に激昂し、元勲を高傑側に通じたとして誤解し、群集に惨殺された(実際には「楊誠」という別の将の乱暴を「揚城」と聞き違えたためとの説もある)。史可法は事件を上奏し関係者の処分を求め、後に首謀者は処刑された。
- 史可法は兵民融和の方策として、高傑軍を城外に駐屯させ瓜州への移駐を図るなど調停に努め、劉沢清に淮上への移動を求めて高傑軍の受け入れ地を確保するなど工作を続けた。最終的に高傑は史可法の指揮下、前部総兵官として四鎮の一つに組み込まれた。
- 高傑軍は城内の百姓は殺し、城外の民は右耳を切り落とすなど過酷な統制を行い、泰興では旧巡撫朱一馮の邸宅に埋蔵された金八十万を掘り出して奪い、朱家は没落したという。
劉宗周、時事を論ず
- 六月、劉宗周が都察院左都御史に起用され、十日に自らを「草莽孤臣」と称する上疏で時局を論じた。討賊の方策として、(1)江北への進出拠点として鳳陽を重視し親征軍を配置すべきこと、(2)督撫の無策による淮北放棄を批判し、逃亡した路振飛・鎮将を処罰すべきこと、(3)功に応じた公正な封爵により軍紀を正すべきこと(左良玉の恢復の功と高傑・劉沢清の敗走が同様に封じられている不公平を指摘)、(4)北京陥落時に偽官に降った者や逃亡者の罪を厳格に区分すべきことを説いた。
- 別の上疏では、督撫が北への援軍を送らなかった罪、新朝樹立後も北伐軍を送らない怠慢、鄭芝竜の水軍による北伐など打つべき手を打たなかった不忠、先帝の喪礼が遅延した不備などを列挙し、厳しい自己改革を求めた。
- 七月、劉沢清・高傑が宗周を「親征を勧め帝位を揺るがし、諸将の封を奪い軍心を乱した」として弾劾、八月には高傑らが重罰を求める上疏を出したが、馬士英がこれを握りつぶした。史可法は「言官の是非論と将の功罪論は別」として双方を宥めた。九月、宗周は致仕(都察院左都御史在任わずか四十九日)。
劉孔昭、張慎言を凌辱す
- 劉孔昭は誠意伯を襲爵し操江を務めた人物で、素行に問題が多かった。実の祖母胡氏を陥れて死なせ、父藎臣も婢女の子でありながら嫡流を僭称して家督を奪ったと伝えられる。
- 甲申五月、起廃議論の際、孔昭は阮大鋮を推すが史可法に拒まれ、可法離京後の五月二十二日以降、馬士英の力を借りて改めて大鋮起用を図る。吏部を統べる張慎言が正論を持し推挙を阻むと、孔昭は諸侯伯を集めて張慎言排斥の謀議を進めた。二十三日の朝廷で、孔昭は湯国祚・趙之竜らと共に張慎言を面罵し、袖から刃物まで取り出して脅す挙に出たが、太監韓賛周や御史王孫蕃らに制止された。慎言は病を理由に辞意を示すが、高弘図・姜曰広らが弁護し、上も慰留した。
- 二十六日、上は高弘図・姜曰広・馬士英を召し、人事を巡る対立について意見を聞き、慎言の清廉さを認める姿勢を見せた。二十七日以降も李沾らが孔昭を擁護する発言を続けたが、六月、史可法が「先帝も囚われの身から人材を起用した例があり、慎言の推挙だけを罪に問うのは理不尽」と弁護、慎言は結局十日に致仕。晋の故郷を失った慎言は寧国に留まり、失意のうちに没したという。
路振飛・王燮、淮安を鎮撫す
- 甲申春、山西方面からの敗残兵の南下で江北が動揺する中、淮撫路振飛は金聲桓ら十七将を防河・徐州守備に配し、二十七日には淮安七十二坊に義兵を組織させ、日々の団練と夜間巡邏を徹底した。
- 二十九日、北京陥落の報が伝わると振飛は壮丁による城門守備を固め、義士を賞して士気を高めた。四月九日には紳士を集め「代わりの者が来れば私を縛って迎えるのか、それとも共に守るのか」と涙ながらに問い、皆が固守を誓った。偽官を捕らえて処刑し、偽将董学禮の反乱も撃破するなど、按察使王燮とともに淮安を守り抜いた。
- 王燮は「春秋」に通じた学者肌の官で、河南祥符県令として危機を三度乗り越えた経歴を持つ。甲申三月に淮安に着任、偽の淮安知府の牌を破棄しその使者を処罰、劉沢清の南侵の意図を説得によって回避させるなど、振飛と共に淮安防衛に尽力した。偽防禦使呂弼周が師弟の縁を頼って着任しようとした際も、燮はこれを拒み処刑、路振飛は見せしめとして市中で公開処刑を行った。
- しかし後に振飛は馬士英に弾劾され、士民の嘆願でようやく免れたものの服喪のため離任、王燮も山東巡撫に転任し、淮安の統制は緩んだ。代わって着任した劉沢清・田仰は防衛より私利を優先したと伝えられる。史可法は「淮人忠義疏」で、淮安の民が偽官の牌を破り使者を斬るなど義勇を示したこと、これが地方官の指導によるものであったことを称賛し、王燮・路振飛らへの顕彰を求めた。
- 偽淮揚防禦使武愫が宿遷で歓待を受け滞在を延ばしていた際、徐州の挙人閻爾梅が偽の布告を罵倒し破り捨てて投獄されるという事件もあった。爾梅は獄中で「死を賭してでも正義を守る」との詩を詠んだと伝わる。