明季北略元帝降乩 思宗 崇禎十一年戊寅 1638年
元帝の降乩
- 正月、翰林・都察院が催した扶乩(神降ろし)で、天下の情勢を占う詩が示された。「兵乱数度、寇乱数度、公卿を奪って長安へ入る」「流賊は数年で一旦収まるが、また新たな戦禍(紅頂=清朝を暗示か)が起こる」といった不吉な内容であったと伝えられる。
張任学、総兵に改まる
- 二月、河南巡按張任学は巡撫昇進を狙って地方兵を過小評価する上奏をしていたが、逆に総兵官に任じられて後悔し、間もなく逮捕された。
蘆溝に築城す
- 二月、蘆溝橋付近に「拱極城」を築いた。太監が工事を監督し、通行人を強制労働に駆り出すなど民の負担は甚大であった。京師側の門を「順治門」、保定側を「永昌門」と名付けたが、著者はこれを奇しくも後の清朝年号(順治)を予言するような命名だったと記している。同年十月、この城の近くで高起潜の軍が敗れており、堅城があっても人を得なければ役に立たないと評している。
黄道周、経筵で応対す
- 三月、崇禎帝が人材登用について問うた際、黄道周は「人材は樹木のように長年かけて育てるもの」と説き、督撫が軍餉不足を理由に戦果を上げられない実情への疑問も呈した。鄭三俊の清廉さを弁護する上奏もあり、鄭三俊は放免された。
曾就義、兵食を論ず
- 三月、曾就義は「民の窮乏は官吏の不廉に由来し、地方官が廉潔であれば増税もやむを得ない」と対答し首席に抜擢された。まもなく剿餉・練餉の増税が実施された。著者は、黄道周の「増税不要」論と曾就義の「増税容認」論を対比し、崇禎帝の好みがどちらにあったかを示唆している。
楊嗣昌、熒惑を論ず
- 四月、火星(熒惑)が月に接近する天変が観測され、兵部尚書楊嗣昌はこれを漢・唐・宋の故事を引いて和議・招撫の必要性を暗示する上奏を行ったが、給事中何偕らはその論法の欺瞞性を鋭く批判した。
何楷、楊嗣昌の忘親を弾劾す
- 六月、楊嗣昌は服喪中にもかかわらず入閣し兵部を兼務した。七月、給事中何楷はこれを「親を忘れる行為」として弾劾したが、崇禎帝は逆に何楷を叱責した。黄道周も、服喪中の陳新甲を宣大総督に起用する人事に異論を唱えた。
黄道周、平台で抗弁す
- 七月、崇禎帝は黄道周を平台に召し、その上奏の動機を厳しく問い質した。黄道周は「私利のためでなく国家のため」と一歩も引かず、楊嗣昌への批判も繰り返した。楊嗣昌は「服喪中の身を忘れたことはない」と反論し、両者の激しい応酬となった。崇禎帝は黄道周を「佞臣」と叱責したが、黄道周は「忠佞を分けねば正邪が混同する」と抗弁し続けた。これを弁護した劉同升・趙士春・何楷・林蘭友らはそれぞれ左遷された。
張縉彦、兵情賊勢を論ず
- 三月、戸部主事張縉彦は、賊が城に籠れば速やかに滅び、流動し続ければ生き延びるという法則を、陳奇瑜の招撫失敗の例を挙げて論じ、賊の得意技(分散)を封じ、農繁期に乗じて討伐すべきと提言した。崇禎帝はこれを是とした。
陝賊、討伐され尽きる
- 五月、洪承疇は尚書の爵位を一時奪われながらも陝西の賊掃討を進め、八月には陝西の賊をほぼ討伐し尽くしたと報告、河南・湖広方面への出撃を命じられた。著者は「五月末までに賊を平定せよ」との急な期限設定とその急な達成報告に疑念を呈している。
豫・楚で連戦連勝
- 正月から熊文燦・常道立・陳永福・左光先・張任学らが河南・湖広各地で賊を相次いで撃破し、闖塌天(劉国能)ら一部の賊は招撫に応じた。混十万(侯世範)も傷を負って降伏するなど、この年は官軍が優勢に転じた。
王燾、隨州で自縊す
- 隨州知州王燾は正月、張献忠の大軍による包囲を撃退し「紙城が鉄城に変わった」と称えられたが、後に再来した賊に守将が逃走したことで城が陥落。王燾は北へ拝礼して自縊した。弘光年間になってようやく忠愍の諡を得た。
張献忠、降伏を請う
- 正月、左良玉・陳洪範が鄖西で張献忠を大破し、張献忠は降伏を願い出た。総理熊文燦がこれを受け入れたが、献忠は要求兵糧を吊り上げ、谷城に拠点を構えて実質的な独立勢力を保った。
羅汝才、招撫を請う
- 九月、熊文燦は襄陽で賊を撃破。十月、後金軍が蘆溝橋で高起潜を破り京師が戒厳となったため、孫伝庭・洪承疇が援軍として召集された。曹操(羅汝才)はこれを自分への討伐と誤解して逃れ、大和山で降伏を申し出た。羅汝才は「百姓として田を耕したいだけ」と述べ実質的な武装割拠を続けた。鄖陽の戴柬閔はこれを「一時しのぎの策」に過ぎないと警鐘を鳴らした。
大清兵、燕・斉に入る
- 二月、後金軍が宣府方面を攻撃。九月には大挙して南下し、十月には盧象昇が迎撃するも果たせず、京師は再び戒厳となった。十一月、高陽で少師孫承宗が殉節、その後衡水・威県・徳州方面まで侵攻し済寧で合流した。十二月、盧象昇は賈荘の戦いで敗死、洪承疇が薊遼総督に転じた。
孫承宗の殉節
- 孫承宗、字稚縄、高陽の人。かつて遼東経略として屯田開拓・軍備強化に大きな功績を挙げたが、魏忠賢一派に疎まれ致仕。崇禎二年に再登用されたが後に和議路線をめぐり退けられた。戊寅年十一月、後金軍が高陽に迫った際、八十歳の高齢ながら郷紳と共に籠城し、城が破れると北を拝して自ら縊死を選んだ。子孫十九人も皆力戦して殉じた。南京の弘光朝でようやく太傅・文忠の諡を追贈された。
盧象昇の戦死
- 服喪中の盧象昇は詔により督師となり、崇禎帝に主戦論を説いたが、楊嗣昌は終始これに難色を示し妨害した。象昇は兵力を分散され、兵糧も絶たれる中で決戦を強行し、十二月十二日、賈荘で奮戦の末に矢を受けて戦死した。著者は、象昇の死の原因(楊嗣昌との不和、寡兵、兵糧・援軍の欠如)がことごとく楊嗣昌の策謀によるものであったとしつつ、「象昇を殺したのも嗣昌なら、象昇の名を千古に成したのも嗣昌である」と評している。
劉廷訓、吳橋で死難す
- 訓導劉廷訓は後金軍来襲の際、県令が逃げた後も城に留まり、幼い孫を僧に託して自らは城を守り抜き、矢を受けて壮絶な最期を遂げた。
鄧藩錫、屈せず
- 兗州知府鄧藩錫は魯王に守城の資金拠出を求めたが聞き入れられず、私財を投じて防戦。内応により城が陥落すると、屈服を拒み凄惨な処刑を受けた。妾は子を抱いて井戸に身を投げた。
孫士美、深州で自刎す
- 舒城知県として七十日にわたる籠城戦を守り抜いた実績を持つ孫士美は、深州知州として後金軍の猛攻を受け、火矢による混乱で城が陥落すると北へ拝礼して自刎した。七十余歳の父も後を追って殉じ、一家十五人が死んだ。
宋学朱、済南で包囲される
- 御史宋学朱は少数の兵で済南を守り、六十日間にわたり不眠不休で防戦したが、援軍要請はことごとく楊嗣昌・高起潜に黙殺された。翌年(己卯,1639年)正月二日、力戦の末に捕らえられ、城楼に吊るされて殺された(後年、実は生きて僧となったという異説もある)。
鄧謙の磔死
- 山東参政鄧謙は済南の防衛で奮戦したが内応により城が陥落、捕らえられて磔にされた。母は民家に隠れ食を絶って死んだ。同時に済南では劉化光・李応薦ら多くの人物が壮絶な最期を遂げた。
蘇州の井戸から鉄匣
- 崇禎十一年、蘇州承天寺の井戸から鉄匣が発見され、南宋の鄭思肖(所南)が著した「心史」が納められていた。宋末から元代にかけての記録で、元の年号を使わず宋の年号のみを用いて記されていた。巡撫張国維がこれを世に刊行した。著者は、三百年を経て発見されたこの書が、宋の再興(=明の再興)を暗示するものではないかと論じている。
銭肅楽、心史に和す詩
- 銭粛楽は「心史」の発見に感銘を受け、詩を寄せて「士君子たる者、この心を一日も失ってはならない」と述べた。
蝗害
- 八月十六日から六日間、無錫でイナゴの大群が西北から東南へと空を覆って飛来した。十月二十六日には王中訒の家が略奪に遭い財産を失った。