明季北略陳啟新疏三大病根 思宗 崇禎九年丙子 1636年

陳啓新、三大病根を上疏す

  • 正月、武挙出身の陳啓新が吏科給事中に抜擢された。かねて彼は、科挙による人材登用(文章と実務の乖離)、資格による硬直した人事、地方官の行取が科道官への出世コースと化していることの三点を「国家の病根」として痛烈に上疏し、科目の停止・孝廉の推挙・行取制度の廃止・災害減税を提言していた。崇禎帝はこれを評価して登用したが、実際には政府に利用され善良な人材を攻撃する道具にされ、陳啓新自身も冷遇されたという。

銭士升、李璡の搜括策を論ず

  • 四月、武生李璡が縉紳・豪家からの資産没収による軍餉調達を提案。大学士銭士升はこれを「衰世の乱政」と厳しく批判し、富家も貧民の生活の糧であると論じたが、温体仁の介入もあって銭士升は叱責され、結局辞任した。

詹爾選、銭士升を弁護す

  • 御史詹爾選は銭士升の辞任を惜しみ、朝廷の茍且の政(搜括策のような場当たり的施策)を批判したが、崇禎帝の怒りを買い投獄されかけ、閣臣の取りなしでようやく免れた。

倪元璐、推薦の乱れを論ず

  • 四月、国子監祭酒倪元璐は、一介の生員が朝臣を勝手に推薦する乱脈を批判したが、七月に自身も誠意伯劉孔昭の弾劾を受けて罷免された。

劉宗周の罷免

  • 四月、大学士温体仁らが関寧の宦官高起潜の求めに応じ馬代を拠出したことに対し、劉宗周は不急の出費と諸臣の迎合ぶりを批判したが聞き入れられず、間もなく罷免された。

文武兼修の科挙

  • 四月、郷試・会試に武経・算術を加える制度改革が行われた。著者は、実際にこの制度が徹底実施されたのは崇禎十三年(1640年)の魏藻徳榜からであったと付記している。

童生瞿昌、白兎を献ず

  • 四月、四川の童生瞿昌が瑞兆として白兎を献上したが、崇禎帝は「瑞兆を献じるのは煩わしい」として却下し帰郷させた。

成徳の投獄

  • 五月、文震孟門下の知県成徳は温体仁を十五度にわたり弾劾し、その母も温体仁の輿を見るたび罵倒するほど剛毅であったが、投獄の末に延綏へ流された。

金光宸の左遷

  • 八月、御史金光宸が兵部右侍郎仇維楨を弾劾した際、宦官の功績を引き合いに出したことが崇禎帝の不興を買い、左遷された。

大清兵、塞に入る

  • 二月から後金(大清)軍が大同・宣府方面に来襲し、六月には喜峰口から侵入して巡関御史王肇坤が戦死。七月には居庸関・昌平方面にも攻め入り、宦官を各要衝の守備に充てる異例の措置がとられた。昌平は降兵の内応で陥落、定興でも戦闘があり、八月から九月にかけて文安・永清・香河・順義・雄県など各地が攻められた。総理盧象昇が宣大山西軍務総督に任じられ防衛にあたった。

鹿善継、定興で殺される

  • 定興出身の鹿善継は、七月、後金軍来襲の際に自ら城を守り抜いたが、七日目に城が破れ、降伏を拒んで斬られた。翌年、子の化麟が上書してその功績を訴え、大理寺卿を追贈された。

京師守備の功績を評す

  • 十月、太監曹化淳らに京師防衛の功として彩幣と世襲の官職が与えられた。著者は、宦官に国家の大事を委ねることへの憂慮を重ねて表明している。

劉宗周、温体仁を疏責す

  • 十月、劉宗周は、袁崇煥事件以降、党派対立が激化し宦官が政治を専断する構図が定着したことを批判し、張鳳翼・丁魁楚ら失態を犯した者が処罰を免れる不公平を指摘した。「八年間、国政を担ってきたのは誰か」と、暗に首輔温体仁の責任を問うている。

謝陞の罷免

  • 十月、吏部尚書謝陞は銓政の弊害についての奏上が崇禎帝の意に沿わず罷免された。十一月には左都御史唐世済も霍維華推薦の責を問われ投獄された。この月、服喪中の楊嗣昌が兵部尚書に起用された。

常自裕、流賊を論ず

  • 正月、給事中常自裕は、流賊の中で最も強大なのは闖王であり、他の官軍の小勝は闖王の勢力に影響を与えていないと指摘し、洪承疇・盧象昇の両軍に闖王討伐を集中させるべきと提言した。著者はこれを「擒賊須擒王」の正しい戦略と評価している。

熊文燦、盧象昇に代わる

  • 六月、洪承疇・盧象昇が陝西・河南の賊を各所で圧倒していたが、温体仁は盧象昇の功を妬み、勤王への転任、さらに宣大総督への異動を経て、招撫路線の熊文燦に交代させた。これにより賊勢は再び盛んになったと著者は評している。

孫伝庭、高迎祥を捕らえる

  • 正月、賊が麟遊を陥落。三月、陝西巡撫甘学潤が罷免され孫伝庭が後任となった。七月十九日、孫伝庭は盩厔で賊を大破し、流賊の巨魁闖王高迎祥とその配下劉哲を捕らえて処刑した。著者は、十年にわたり秦晋を荒らした高迎祥を捕らえたこの功績を高く評価している。

李自成、西川に入る

  • 高迎祥が捕らえられた後、李自成は西川へ逃れ、寧羌・広元を攻め、成都にも迫った。蜀の巡撫王維章は防衛に失敗し処刑された。

河南光山の敗北

  • 正月、賊が閿郷を陥落。河南巡撫王家禎が短期間で交代し常道立が後任となる中、内臣盧九徳・劉元斌が禁旅を率いて討伐に赴いたが、光山で大雪の中賊の伏兵に遭い官軍は大敗した。この年、賊勢はますます強まったと記される。

左良玉、鄢陵の大勝

  • 秋、河南の賊首老回回・許文沖ら連営七十里の大軍が跳梁する中、左良玉は諜者から得た「大営の焚き火は大きく、小営は小さい」という情報を逆用し、偽の大営を設けて賊将を誘い出し多数を討ち取った。「白袍将軍」薛仁貴と名乗った賊将の妻の話や、追撃戦での苦戦の逸話も詳しく伝わる。左良玉は略奪品を私せず兵に分配したことで信望を得たという。

楚中の流賊、竹山を焼く

  • 十二月、鄖襄の賊が竹山を襲い、知県黄応鵬は逃走。賊は糧を食い尽くした後、県治を焼いて空城とした。鄖陽の巡撫は交代が相次いだが、著者は文弱な官による対応の限界を指摘している。

張献忠、応城を陥す

  • 十二月、張献忠は応城を偽って素通りするそぶりを見せ、油断した住民が油断した隙に突如攻撃、城を陥落させ大規模な殺戮を行った。その後、雲夢を攻めたが、山西商人らの機転で撃退されたという逸話も伝わる。

宜城の張烈婦、賊を罵る

  • 崇禎丙子年、宜城の何氏(張聯奎の妻)は賊に襲われた際、辱めを受けるより死を選び、七歳の子順童と共に賊を罵って殺された。撫按がその節義を朝廷に上奏した。

劉大鞏、滁州を守る

  • 正月、賊は滁州を包囲したが、太僕寺卿李覚斯・知州劉大鞏が民衆と共に籠城戦を戦い抜いた。盧象昇の援軍が到着すると賊は大敗し、朱大典・楊御蕃らの追撃でさらに損害を受け、賊は懐遠・霊璧・蕭県方面へ敗走した。

楊爾銘、史可法を救う(桐城人の伝聞)

  • 流賊が安慶・桐城方面を襲った際、安廬道史可法は鹿耳城で包囲され危機に陥り、桐城知県楊爾銘に急使を送った。楊爾銘は少数の郷兵に松明を二本ずつ持たせ整然と行進させることで大軍の来援と誤認させ、賊を退却させて史可法を救った。後に賊が再来した際も黄得功の軍を迎えて廬州を守り、楊爾銘は後に兵憲・広東道御史にまで昇進した。

天変異象

  • 正月、孝陵で雷火により樹木が焼けた。二月、山西で大飢饉、人が人を食う惨状となり、唐王聿鍵は南陽の飢饉の中で母が娘を煮て食べたという惨事を報告した。六月三日夜、大きな赤い流星が西南から東へ轟音とともに流れた。著者は、父母を炙って食べた前例と併せ、母が娘を煮た今回の事件を「人道の絶滅」と嘆いている。

孝子郭亮、家に火つかず

  • 湖広孝感の郭亮は、母の病に自らの右腕の肉を割いて薬とし、後に父の病にも左腕の肉を捧げるなど篤い孝行で知られた。父母の死後、六年間喪に服し目を痛めるほど号泣した。流賊が彼の家に火を放とうとしても燃え上がらず、孝子の家と知った賊は下馬して拝んで去ったという。

大清、崇徳と改元す

  • この丙子の年、後金(大清)は国号を改め崇徳元年とした(大清の天聡十年、明の崇禎九年にあたる)。

陳烈婦伝

  • 呉江の陳氏(張士柏の妻)は、夫の兄士松と富豪徐洪の共謀により拉致され側室にされそうになったが、頑として拒み続けた。訴えても県令に誣告され投獄される不当な扱いを受けたが、巡按御史路振飛への直訴の末、絶望して自ら首を刺し、衣服を几帳面に整えて絶命した。路振飛は加害者を処罰し、給事中許誉卿もその冤罪を晴らす書状を寄せた(本文に付記される)。県令はほどなく急死し、逃れた加害者一味も落雷に遭って死んだと伝えられる。