信王の登極
- 信王由検(後の崇禎帝)は光宗の第五子、熹宗の異母弟。天啟二年に信王に封じられ、天啟六年に婚儀を整えられた(周皇后を娶る)。
- 八月、熹宗が重篤となり、魏忠賢は一時垂簾聴政も画策したが宰相施鳳来に退けられ、諸臣の勧めで信王が入宮した。信王は毒殺を恐れて食物を懐に忍ばせ、宦官の動きを警戒しながら一夜を過ごした。
- 二十二日、熹宗は信王に後事(堯舜たる君となること、中宮への配慮、魏忠賢の重用)を託して申の刻に崩御。二十四日、信王は中極殿で即位し百官の朝賀を受けた。翌年戊辰より崇禎と改元することが定められた。
客氏の出宮
- 客氏はかつて中宮を脅かし裕妃・成妃を害し、司礼監王安を殺すなど魏忠賢の悪行の背後にあった人物で、熹宗の寵愛を笠に着て宮中で皇族並みの威勢を振るっていた。熹宗崩御後、崇禎帝は客氏に私邸へ退去するよう命じた。客氏は熹宗の胎髪や爪などの遺品を焼いて別れを告げた。
陸万齢の下獄
- かつて監生陸万齢は国子監に魏忠賢を祀る祠を建てるよう請願し許されていたが、司業朱三俊がこれを弾劾し、陸万齢・曹代は投獄された。魏忠賢は恐れて祠の建立を自ら取り止めるよう願い出た。
崔呈秀の帰郷
- 十月、楊維垣・陸澄源・賈継春らが崔呈秀の不正(賄賂による人事、母の喪に服さないなど)を相次いで弾劾し、崔呈秀は服喪のため帰郷を命じられた。
銭元愨、魏忠賢を弾劾す
- 十月二十五日、吏部主事銭元愨は魏忠賢の罪状を王莽・梁冀・董卓・趙高らの故事になぞらえて痛烈に弾劾する上奏を行った。魏忠賢の一党(呉淳夫・李夔龍・田爾耕ら)は次々に辞任・帰郷を願い出た。
銭嘉徴、忠賢の十大罪を弾劾す
- 十月二十六日、貢生銭嘉征が「並帝・蔑后・弄兵・無君・克剝・無聖・濫爵・濫冒武功・生祠濫建・通関節」の十大罪を挙げて弾劾。崇禎帝はこれを魏忠賢の面前で宦官に読み上げさせ、魏忠賢は震え上がったと伝えられる。
魏忠賢、鳳陽に謫せらる
- 十一月、魏忠賢は印綬を返上し閑職に退いたが、諸臣が引き続きその党類(崔呈秀・田爾耕・許顕純ら)を弾劾。崇禎帝は密かに実情を調べ、魏忠賢の数々の罪状(貴人の迫害、宮中人事の私物化、忠良の弾圧、兵権の掌握など)が事実であると確認し、鳳陽の皇陵守衛に落とし家財を没収するよう命じた。
- 護送の道中、魏忠賢が多数の護衛と財宝を伴っていたことが通政使楊紹震に弾劾され、崇禎帝は激怒し、沿道の官に厳重な監視と護送を命じた。
魏忠賢の自殺
- 護送の途中、阜城県near で、かつての権勢と現在の凄惨さを風刺する俗謡を聞き、絶望した魏忠賢は李朝欽と共に縊死した。随行の宦官らは狼狽して逃走・自首し、財産は没収された。崇禎帝は誰の助けも借りず独力でこの巨悪を除いたとして、天下に称えられたという。
張瑞図の帰郷
- 十二月、法司が魏忠賢一党の罪を追及する中、崇禎帝は贓罰庫で魏忠賢の遺物の中に次相張瑞図直筆の頌徳の書を見つけ激怒、張瑞図に帰郷を命じた。
崔呈秀の誅殺
- 崔呈秀は蘇州で自らの運命を悟り、寵妾蕭霊犀と共に自殺を図ったが、朝廷は改めてその屍を斬首に処し、家財を没収した(自殺・処刑の時期については記録に異同がある)。
姚士慎、田爾耕・許顕純を弾劾す
- 大理寺卿姚士慎らは、魏忠賢の悪行の実行者として田爾耕・許顕純の罪を追及。両名は原籍に送られて処刑され、家財も没収された。
客氏の処刑
- 崇禎帝は客氏を厳しく取り調べさせ、宮女を身籠らせていた事実(呂不韋・李園の故事に倣った陰謀と目された)が発覚し、浣衣局で打ち殺された。その子侯国興らも処刑された。
香による惑わし(聞香心動)
- 崇禎帝が奏章を読んでいる最中、香に心を惑わされたことに気づき、由来を問うたところ宮中の秘薬と知り廃棄させた。「先帝・先兄もこれで身を誤ったのだろう」と嘆いたという。
- また別の逸話として、夜に不審な灯火を追わせたところ魏忠賢が仕込んだ香炉番の宦官が見つかったこと、魏忠賢が献上した美女が「迷魂香」という媚薬を体に忍ばせていたことも伝わる。著者はこれらを君主を惑わす奸計の典型と評している。
諸臣への贈諡
- 崇禎帝は楊漣・繆昌期・魏大中・李応昇・周順昌・左光斗・袁化中・周朝瑞・高攀龍・夏之令・蘇継欧・周起元・黄尊素ら、魏忠賢に無実の罪で殺された人々にそれぞれ諡を贈った。
六相の廷推
- 十一月、廷議により銭龍錫・楊景辰・来宗道・李標・周道登・劉鴻訓が大学士に選ばれ入閣した。