明季北略瀋陽陷 熹宗 天啟六年丙寅 1626年

袁崇煥、寧遠を守る

  • 正月、後金の大軍が寧遠に来襲。巡撫袁崇煥は総兵満桂・趙率教・左輔らと共に籠城し、火薬を仕込んだ布団を敵に投げつける奇策(万人敵)などで防戦、多大な損害を与えて撃退した。城内の百姓は皆その功を称えたという。

周順昌の獄死

  • 周順昌、字景文、呉県の人。魏大中の逮捕に際し、その孫と娘の縁組みを約すなど義侠を示し、魏忠賢を罵ったことで恨みを買った。逮捕の際、蘇州の民衆数万が抗議し、顔佩韋ら義民五人が緹騎と衝突する騒動となった。順昌自身は屈せず、六月の酷暑の中、拷問により獄死した。
  • 顔佩韋・楊念如・沈揚・馬傑・周文元の五人は後に処刑されたが、蘇州の民は五人を祀り「五人之墓」を建てた。

高攀龍の投水自殺

  • 高攀龍、字存之、無錫の人。東林書院を再興し理学の大家として知られたが、崔呈秀の弾劾を発端に魏党の恨みを買い、三月に逮捕命令が下ると、遺表を残して自ら池に身を投げて果てた。崇禎帝は兵部尚書・忠憲の諡を追贈した。

天変地異(丙寅五月初六の大爆発)

  • 五月六日巳の刻、北京の王恭廠付近で大爆発が発生。数万間の家屋が倒壊し、二万人余りが死亡したと伝えられる。象房も倒壊し象が逃げ出す混乱となった。欽天監はこれを「地鳴」として兵乱の凶兆と占ったが、魏忠賢は妖言を広めたとしてこれを唱えた者を杖殺した。
  • 爆発に伴う奇怪な現象(衣服が空を飛び西山にかかった、皇帝が乾清宮から交泰殿へ避難した際に近侍が瓦の直撃で死亡したなど)が多数記録されている。著者は「熹宗即位以来の天変地異はこれほど激しいものはなかった。崇禎年間の大飢饉・大乱の兆しはすでにここに現れていた」と評している。
  • 六月五日、広昌県で地震があり城壁に大きな亀裂が生じ、妖異の噂が立って僧道が祈祷を行った。同日、大同府でも地震があり城壁が倒壊し多数の死者が出た。
  • 六月二十一日、朝天宮で出火し、大殿以下百十一間を焼失した。六月二十八日から閏六月三日にかけて北京で豪雨があり、水位六尺に達して家屋が倒壊、良郷県などでも水害が発生した。
  • 八月一日、江南で木を根こそぎ倒すほどの強風が吹き、古今稀な出来事とされた。
  • 十一月十八日、南京の陵寝付近で地震。二十五日には寧夏でも地震があり、この年は半年で三度の地震があったと記される。