明季北略瀋陽陷 熹宗 天啟五年乙丑 1625年

楊漣の獄死

  • 楊漣、字文孺、応山の人。魏忠賢・客氏の専権を弾劾したことで恨みを買い、鎮撫司で許顕純による凄惨な拷問を受け、七月二十四日に落命した。取り調べでは終始屈せず、移宮の一件や熊廷弼弾劾の正当性を堂々と主張した。崇禎元年、諡と蔭子を賜った。

移宮一案(回顧・泰昌元年1620年)

  • 光宗崩御後、李選侍が乾清宮に居座り熹宗との同居と垂簾聴政を図ったが、楊漣・左光斗らは先帝の寵妃に過ぎない選侍の専横を許すべきでないとして移宮を強く迫り、ついに退去させた。この一件が後に楊漣らが魏党から憎まれる遠因となった。

附・魏大中

  • 魏大中、浙江嘉善の人。閣臣魏広微の誘いを拒み恨みを買った。逮捕の際、子に「忠孝はともに臣子の本分」と諭して従容として舟に乗った。厳しい拷問の末、七月二十六日に獄死した。

補記(許顕純の汪文言尋問と十七君子の名)

  • 許顕純は汪文言を拷問して趙南星・楊漣・左光斗・魏大中ら十七名の贈収賄を捏造しようとしたが、文言は口を割らず、口封じのため獄死させられた。

左光斗の獄死

  • 左光斗、字共之、桐城の人。移宮の一件で選侍を退けた功により憎まれ、魏忠賢・魏広微を弾劾する上奏を準備していたが家僕の密告で発覚し免職。後に逮捕され、拷問により全身傷つき獄死した。崇禎帝即位後、太子少保を追贈された。

李応昇の獄死

  • 李応昇、字次見、江陰の人。魏広微・魏忠賢を弾劾する上奏で逆鱗に触れ逮捕、拷問の末、閏六月十日ごろ獄死した。

繆昌期の獄死

  • 繆昌期、字当時、江陰の人。東林への関与を疑われ長く不遇であったが、梃撃案での正論などを自ら語り残している。天啟四、五年の弾圧の波の中で逮捕され、酷刑により命を落とした。

周宗建の獄死

  • 周宗建、字来玉、呉江の人。魏忠賢を「一丁字も識らぬ」と弾劾し激しい恨みを買った。許顕純の拷問により全身が爛れ、二日間苦しんだ末に死んだ。崇禎帝即位後、坐贓を免除され太僕寺卿を追贈された。