瀋陽陥落
- 正月、後金の大軍が渾河に迫り瀋陽を包囲。総兵賀世賢は早まって砲を撃ち尽くし、援軍の参将王世科も撃破された。十日で北門が破られ、賀世賢は敗走の末に李永芳の哨騎に降伏、瀋陽は後金の都「瀋京」となった。
遼陽陥落
- 三月二十日、遼陽陥落。経略袁応泰・巡按張銓・分守道何廷魁・監軍道崔儒秀らは籠城して防戦したが、火器が尽き、内応する降兵に城門を開けられた。
- 袁応泰は自刎、崔儒秀は縊死、何廷魁は妻子と共に投井、張銓は北門を死守し李永芳を罵りながら討たれた。城中は火に包まれ、哭声が地に満ちたという。
附記(遼陽生員の話)
- 順治十七年、遼陽出身の生員が語ったところによると、遼東陥落の際、後金は貧民や富裕層を粛清の対象としたが、靴工・木工・裁縫・芸人の四種の技能者だけは殺さなかった。読書人(秀才)は特に狙われ、自身も芸人と偽って歌を披露し難を逃れたという。
袁応泰伝
- 袁応泰、字大来、鳳翔の人。地方官として堤防築造や賑恤に実績を挙げ、熊廷弼の後任として遼東経略となった。降兵の受け入れを積極的に進めたが、これが瀋陽・遼陽陥落の内応を招く一因となったとされる。
- 城が落ちるや闕を拝して自刎、遺書で父に別れを告げた。朝廷は当初その受降策を軽率と非難したが、翌年兵部尚書を追贈し祭祀を行った。
張銓の殉節
- 張銓、字宇衡、山西沁水の人。遼陽籠城戦で袁応泰と共に死を誓い、城陥落後も強いて生かされそうになったが屈服せず、自ら官署で縊死した。忠烈の諡を賜り祠が建てられた。
何廷魁の投井
- 何廷魁、字汝謙、山西大同の人。袁応泰との意見対立から納降に反対したが容れられず、城陥落時に妻妾・婢僕とともに井戸に身を投げた。忠愍の諡を賜った。
崔儒秀の自縊
- 崔儒秀、号儆初、河南陝州の人。兵法・陣法に通じ、家財を投じて義勇兵を募った。遼陽の東城を守ったが降兵の内応で城が破れ、都司の庁舎で自ら首を吊った。他にも尤世功・陳策・童仲揆ら多くの武将が戦死し、朝廷から恤典を受けた。
天変異象
- 二月三日、遼東で日暈が現れ、日の周囲に環状の光が生じ、刀や弓の形をした雲気も見えた。翌日、淮徐で地震があった。
- 二月一日、鞏昌府会寧県の寡婦の家で牛が鱗甲を持つ子牛(麒麟と目された)を産み、三日後に死んだという異聞も伝わる。