明季北略瀋陽陷 熹宗 天啟二年壬戌 1622年

広寧の潰乱

  • 経略熊廷弼は守勢、巡撫王化貞は主戦を唱え、両者の不和が敗因となった。正月、化貞配下の先鋒孫得功が戦わずして「敗れた」と叫んで軍を混乱させ、総兵劉渠・祁秉忠が戦死。西平堡を守った羅一貴も自刎し、広寧は瓦解した。
  • 化貞は逃走の混乱の中で自らの馬まで奪われる有様であった。熊廷弼は化貞と合流したが、既に手遅れと判断し、民衆を伴い山海関へ撤退するにとどめた。

附記

  • 按察使方震儒も撫臣の逃走を聞いて単騎で逃れ、監軍の牛維曜・邢慎言も同様であった。高邦佐だけは松山にとどまり、西を拝して縊死した。

高邦佐の自縊

  • 高邦佐、字以道、山西襄陵の人。広寧陥落に際し、老母への訣別の書を残し、西に向かい叩頭した上で印綬を用いて自ら首を吊った。従僕二人も後を追って死んだ。朝廷は忠節の諡を贈った。

羅一貴の自刎

  • 参将羅一貴は西平堡を守り、一昼夜の激戦で敵に多大な損害を与えたが、火薬が尽きて自刎した。李永芳の降伏勧告を拒み、最後まで抗戦した。

五監軍の逃亡

  • 高出・胡嘉棟・韓初命・牛象幹・邢慎言の五人の監軍は「同逃五監軍」と称され、高出・胡嘉棟は朝廷に召還され取り調べを受けた。

附記(内応の経緯)

  • 孫得功はかつて賀世賢配下にあり、賀の後金降伏後に内応の約束を交わしていた。王化貞の失策は敵の間諜を過信し柔弱に流れた点、熊廷弼の失策は剛愎で備えを怠った点にあると評される。御史謝文錦は、両者の対立の根本原因は本兵(兵部尚書)張鶴鳴の采配の誤りにあると論じた。

熊廷弼伝

  • 熊廷弼、号芝岡、湖広江夏の人。武勇に優れ左右の弓を引きこなした。楊鎬の後任として遼東経略となり瀋陽・遼陽陥落後に再登用されたが、王化貞との権限争いで力を発揮できず、広寧陥落の責を負って投獄された。
  • 天啟五年(1625年)八月、処刑され首を九辺に伝えられた。著者は、楊鎬・袁応泰と比べても過酷な処分であったと評している。

毛文龍、皮島に入る

  • 毛文龍、号振南、銭塘の人。李成梁の推薦で遼東に赴き、天啟二年、皮島(東江)を拠点として遼東各島の残存勢力・難民を糾合し、後金の背後を脅かす遊撃拠点を築いた。
  • 鎮江城を一時奪還するなどの戦果を挙げたが、後金の大軍来援により再び失陥。金州の攻略にも一時成功するなど、各地で後金を牽制し続けた。

天変異象

  • 九月二十二日、陝西臨洮で地震があり家屋が倒壊し死傷者が出た。
  • 十月、開封府禹州の大隗山に緑毛の大鳥が飛来し、無数の鳥がこれに従って群れ集まった。人々は鳳凰と噂した。