明季北略清朝建元 光宗・熹宗 萬暦四十八年(泰昌元年) 1620年

天象(蚩尤旗)

  • 円く長さ二十余丈、白光が雲のように凝る「蚩尤旗」と呼ばれる彗星が半月ほど現れた。

光宗貞皇帝の即位と崩御

  • 光宗(諱常洛)は神宗の子で万暦十年生まれ。幼少より聡明で学問を好み、経筵での受け答えの巧みさが伝わる。
  • 万暦四十三年(前述の梃撃事件)の際には、神宗の詰問に対し寛大な処置を求め、父子の情を強調して神宗を安堵させた。
  • 万暦四十八年八月朔、神宗崩御を受け即位。しかし在位わずか一月で九月朔に崩御した。以後、八月以降を泰昌元年と称する詔が出された。

紅丸の一件

  • 八月二十九日、鴻臚寺丞李可灼が紅丸(丹薬)を進上、翌日光宗が崩御した。
  • 御史王安舜は李可灼を弾劾したが、朝廷は「先帝を思う心からの行い」として俸給一年分の軽い処分にとどめた。
  • 楊漣は先に内官崔文升が誤った薬を用いたことを問題視し、御史鄭宗周・惠世揚・傅宗臯・馬逢臯・李希孔らも次々に崔文升・李可灼の責任を追及。刑部主事王之寀は李選侍・鄭貴妃・崔文升・李可灼の関与を一連のものとして糾弾、礼部尚書孫慎行も輔臣方从哲の対応を批判した。
  • 最終的に李可灼は法司で取り調べの上で辺境へ配流、崔文升は南京へ三年間の左遷処分となった。
  • 梃撃・紅丸・移宮の三事件は「三案」と呼ばれ、当時の宮廷を揺るがした(移宮の一件は楊漣伝に別記される)。

熹宗の即位

  • 光宗の子熹宗が万暦四十八年九月六日に即位し、泰昌元年を継いだ。

顧慥、遼事を論ず

  • 九月十二日、御史顧慥は、後金軍が撫順関・東州堡から侵入したが総兵賀世賢・柴国柱が瀋陽で防いだことを報告する一方、姚宗文の上奏によれば実際の被害は甚大で、わずかな戦果を誇張して朝廷に報告している実態を批判。年々八百万両にも及ぶ軍費負担が続けば、民が窮乏し内乱(外敵ではなく国内の混乱)を招くと警告した。
  • この警告は後の流賊の蜂起を予見するものであったと評される。

河清

  • 八月十五日、臨鞏・蘭州間の黄河が半日ほど澄み切る「河清」の現象が三日続いた。陝西巡撫李起元がこれを上奏した。
  • 天変地異が相次ぐ中でのこの瑞兆を、著者は「聖人の出現を待つにはもはや遅すぎる時代の徴」と評している。

楊嗣昌、飢饉を奏す

  • 八月二十三日、餉司楊嗣昌が上奏し、淮北の民が草根樹皮を食い尽くし、江南でも米価が急騰して商船が滞り略奪の動きすらあると報告。「民は窮乏し、今は賊を討つ側だが、いずれ民自らが賊となるおそれがある」と警告した。この予言は後に的中したと評される。

熊廷弼の解任

  • 九月、御史馮三元が熊廷弼の「無謀八・欺君三」を弾劾し、熊廷弼は辞任を願い出た。楊漣は熊廷弼の功罪の両面を認める意見を述べたが、御史張修徳らはなお追及を続けた。
  • 熊廷弼は弁明の上疏で、三路敗戦後の混乱の中で自らが遼陽を立て直し、兵馬・銭糧・器械を整備した実績を詳細に述べたが、結局解任され帰郷を命じられた。十月、袁応泰が後任の経略となった。