明季北略清朝建元 神宗 萬暦四十七年己未 1619年
薩爾滸の敗戦(劉・杜二将軍の敗績)
- 経略楊鎬は号十二万(実数十万未満)の兵を四路に分けて進軍させた。西路の主将杜松は勇猛廉潔で知られた将であったが、渾河を渡る際に功を焦って浅瀬から強行渡河し、後金軍の火攻めと夜襲に遭い全軍壊滅、杜松も戦死した。
- 後金軍は杜松軍を破った後、降伏した浙江出身者を使って偽の令箭を持たせ、劉綎の西北路軍に「杜松軍が窮地にあるので合流されたし」と偽の急報を届けさせた。劉綎はこれを信じて陣形を崩して急行したところ伏兵に遭い、火器という得意の戦術を活かせないまま壊滅、劉綎も両王子との激戦の末に戦死した。
- 東路軍を率いた馬林も後金軍に敗れ後退。清河方面の李如柏のみ、経略の命により撤退して無事に帰還したが、この撤退の巧妙さがかえって疑いを招いた。
薩爾滸敗戦の余話
- 劉綎はかつて朝鮮出兵や播州楊応龍討伐で武功を挙げた勇将で、力量や刀技についての逸話が多く伝わる(庭を三周する間酒宴の食器を崩さなかった話、戦後は疲労で血の凝った手で刀を握ったまま眠ったという話など)。
- 後金に降った浙江出身の兄弟が、弟の身代わり工作により兄を人質に取られ弟が後金軍に協力したという経緯も伝わる。
楊鎬の逮捕
- 八月十三日、楊鎬が逮捕された。九月、刑科は楊鎬の喪師失地の罪を弾劾する一方、李如柏を庇い杜松・劉綎を実質的に見殺しにした経緯(誓師の際の偽りの好意、偵察を装った妨害など)を詳述し、楊鎬こそが敗戦の真因であると断じた。開原を失った李如楨・周永春にも同様の責任があるとされた。
熊廷弼、遼陽を経略す
- 六月、後金の大軍が開原・鎮西堡を相次いで陥落させた。神宗は熊廷弼を楊鎬に代えて経略に任じ、剣を賜って赴任させた。熊廷弼は遼陽に入り、敗走した遊撃劉遇節らを処刑し、戦没者を弔う祭壇を設けた。
- 熊廷弼は瀋陽の孤立を懸念し、遼陽を守る方針で塹壕・城壁の整備を進めた。