明季北略清朝建元 神宗 萬暦四十六年戊午 1618年
撫順城陥落
- 四月十五日、後金の精鋭が遊撃李永芳を捕らえ撫順城が陥落。後金は漢文の檄文を清河に送りつけた。総兵張承允が援軍を出したが、二十日、後金軍の偽退却に誘われて夾撃を受け、張承允・副総兵顧廷相・遊撃梁汝貴が戦死、全軍が壊滅した。
- 太祖は自身の六十歳の誕辰に諸子から入寇を勧められ、四王(後の太宗ホンタイジ)の献策により、馬市を装った偵察と夜襲の計を用いて撫順を陥落させた。李永芳は降伏し副総兵に取り立てられ剃髪した。
清河城陥落
- 閏四月、太祖は漢人張儒紳らを遣わし和睦を求める文書を送り、自ら「建州国汗」と称した。五月、撫安・三坌・白家沖の三堡を攻略し、勢力は十万に迫った。朝鮮とも婚姻関係を結び、李永芳も後金と縁組みした。
- 七月、後金軍は鴉鶻関から侵入し清河を包囲。参将鄒儲賢・遊撃張旆が防戦したが敗れ、両将とも戦死。城内の守兵六千余は為す術なく全滅、周辺の堡も焼き払われた。参将賀世賢のみが叆陽の辺外で首級百五十四を挙げた。
- 清河陥落の前日、後金の二王子が明側の総戒張氏と酒を酌み交わし、和戦の見込みを探る中で漢人商人らが城門に入り込み内応したため、清河の陥落は撫順よりも速かったと伝えられる。以後、広寧・遼陽の陥落も同様に内部崩壊が先行したためとされる。
- 七月、朝廷は戦死した張承允に諡を贈り、祠(旌忠祠)を建てた。
天象(付記)
- ある野史によれば、この年八月、東方に数十丈にわたる彗星(蚩尤旗)が現れ、十月まで見えたという。識者はこれを天下大乱の前兆と見た(この一段は辛亥年四月九日に社埄王館で補記されたもの)。