舊五代史卷一百三十六 僭偽列傳第三 孟知祥

出自と西川領有

  • 孟知祥、字は保裔、邢州龍岡の人である。祖の察、父の道は世に郡校となり、伯父の方立は邢洺節度使に終わり、従父の遷は位が沢潞節度使に至った。知祥は後唐荘宗の同光3年(925年)、西川節度副大使知節度事を授けられた。天成中(926-930年)、安重誨が権を専らにし、知祥が荘宗の旧識で大藩に拠り久しく制しがたいことを慮って密かに図ろうとした。客省使の李厳はかつて蜀に使いした縁で利病を洞知しており、自ら西川監軍となり知祥を効略で制することを重誨に献策、朝廷はこれを可とした。
  • 厳が蜀に至ると知祥は丁重に迎接し「都監(厳)は先に奉使して伐蜀の兵を興させ、その結果東西両川がともに破滅に至った、川中の人々の怨みは深い、今また来られると人情は大いに驚くだろう」と徐ろに厳に告げた。以後、朝廷は剣南の牧守を任ずるごとに必ず兵を提げて赴かせ、あるいは千あるいは百とし密旨で両川を制させようとした。この頃、東川を鎮していた董璋もすでに数年で雄拠の志を抱いていたが、朝廷が夏魯奇を遂州に、李仁矩を閬州に鎮させ皆兵数千を率いて赴任させ密旨で両川を制させようとしたことを察知した董璋は、知祥と好を通じ婚姻を結んで輔車の勢いを固めた。知祥は唐軍が急に至れば閬兵と合流し支えきれないと慮り、璋と協謀し璋の本部軍にまず閬州を取らせ、自らは大将の李仁罕・趙廷隠に軍を率いさせ遂州を包囲させた。長興元年(930年)冬、唐軍が蜀を伐ち剣門に至ったが、2年、遂・閬の陥落に加え糧運が続かず班師、3年、知祥はさらに董璋を破り自ら東西両川節度使を領した。応順元年(934年)、剣南東西両川節度使・蜀王として蜀で称帝し明徳と改元、7月、61歳で卒した。