即位と亡国
- 昶は知祥の第三子で、母は李氏、もと荘宗の嬪御で知祥に賜わったものである。唐天祐16年(919年)己卯11月14日、太原で昶を生んだ。知祥が蜀に鎮すると昶は母とともに知祥の妻・瓊華長公主に従って蜀に入り、知祥の僭号後は偽って皇太子に冊された。知祥の卒後、偽位を襲い当時16歳、なお明徳の年号を称し、偽明徳4年(937年)冬、偽詔をもって翌年を廣政元年と改めた(この年は晋の天福3年にあたる)。偽廣政13年(950年)、睿文英武仁聖明孝皇帝の尊号を偽って奉られた。皇朝乾徳3年(965年)春、王師が蜀を平定し昶に一族を挙げて闕に赴くよう詔し、京師に甲第を賜り、その臣下にも賜賚は甚だ厚く、まもなく楚王に冊封されたが、この歳の秋、東京(開封)で卒した。年47。事跡は皇家日暦に詳しい。知祥が同光2年(924年)丙戌の歳に蜀へ入ってから父子相継ぎ40年で滅亡した。
史論
- 史臣曰く、かつて張孟陽(張載)は「劒閣銘」に「これ蜀の門、固を作し鎮を作す、世濁れば逆道もまた清し」と述べた。これは古来、坤維の地(蜀)は乱世には閉ざされて通ぜず、興運に逢えば俯拾のように容易く取れるものと知られていたことを示す。唐(荘宗)の蜀入りは兵力こそ勝ったが帝道は昏く、それゆえ数年で得た地をまた失った。皇上(宋太祖)の平蜀にあたっては堯日をもって煦し舜風をもって和したため、比戸の民は悦んで従化した。かつまた、王衍は季世(衰世)に遭遇して秦川で一族を赤族とされ、孟昶は明代(治世)に遭遇して楚甸に封を受けた。ともに亡国の主でありながら、その幸不幸の隔たりは実に遠いものである。