舊五代史卷一百三十六 僭偽列傳第三 王衍
王建の幼子で、父の死後に蜀(前蜀)の位を継いだ。政務を側近に委ねて奢侈に耽り国政は乱れ、後唐荘宗の伐蜀の軍を受けて成都で降伏し、蜀は滅亡した。
年表(3件)
- 乾徳6年12月翌年を咸康と改元する
- 唐同光3年9月925年荘宗が伐蜀の詔を下し、魏王継岌らが進発する
- 唐同光3年11月925年成都北の昇仙橋で王師に降伏し、蜀が滅亡する
即位と奢侈
- 衍は建の幼子である。建の卒後、偽位を襲い乾徳と改元、乾徳6年12月、翌年を咸康と改めた。秋9月、衍は母の徐妃と共に青城山に遊び上清宮に駐し、時に宮人はみな道服を着け金蓮花冠を頂き雲霞を画いた衣を着せられ、望めば神仙のようであったが、侍宴で酒酣となり冠を免ずると結った髻が露わになった。また怡神亭を構え、佞臣の韓昭らを狎客として婦人を交え荒宴を恣にし、朝から晩まで灯を継いで続けることもあった。偽の嘉王宗寿は侍宴の折、社稷・国政のことを言い涙を流して再三諫めたが、同宴の佞臣潘在迎らは「嘉王は酒を好んで悲しんでいるだけです」と衍に奏し、笑いに紛らせて済ませた。これより忠正の臣は結舌するに至った。
- 時に中国は多事であったため衍は自ら安んじることができた。唐荘宗が梁を平定した後、告捷の使者を蜀に送ると蜀人は恟懼しつつ礼を致し復命、「大蜀国主」と称して上大唐皇帝に書を送ったが、その詞理はやや抗して荘宗は容れがたく、客省使の李厳を報聘に遣わし、あわせて宮中の珍玩を市(もと)めさせたが、蜀人はみな禁じて出さなかった。衍は冲騃(幼稚)で軍国の政はことごとく人に委ねられ、王宗弼という者は六軍使として外任を総べ、宋光嗣という者は枢密使として内任を総べていた。李厳が蜀に至ると光嗣らは曲宴を開き中国近事を語り、厳もまた近事を引いてこれに折り合った。光嗣らは厳の弁対を聞いて畏れつつ奇とした。厳が使いを終えて還り荘宗に「王衍は騃童(愚か者)に過ぎず、宗弼らがその兵柄を総べて家財を益すのみで民事を恤まず、君臣上下ただ窮奢を務め、旧勲故老は用いられず、蛮蜑の民は瘡痏を深く痛めている、私が推量するに大兵一たび臨めば望風して瓦解するでしょう」と奏すると、荘宗は深く然りとし、兵を蒐め馬を括り平蜀の志を固めた。
唐軍の蜀征討と降伏
- 唐師がまだ起こらぬ時、偽東川節度使の宋承葆が衍に「唐国の兵は強い、早く謀らねば後には救われぬ」と献策し、嘉州の松江で戦艦500艘を造り水軍5千を募って江を下り峡に赴き、東の師は襄・鄧より水陸ともに進んで東北の辺を厳兵して守り、南の師は江陵より出て利あらば進み否らば硤口を保ち、また三蜀の驍壮3万を選んで岐・雍を急襲、東は河・潼に拠り北は契丹を招いて美利を啖わせ、可能ならば進み否らば散関に拠って自らを固めるべきで、事が成らずとも敵の心胆を攻めることにはなろうと説いたが、衍はこれに従わなかった。
- 唐同光3年(925年)9月10日、荘宗は伐蜀の制を下し興聖宮使の魏王継岌を都統、枢密使の郭崇韜を行営都招討とし、18日、魏王は闕下の諸軍を率いて洛陽を発した。11月21日、魏王が徳陽に至ると、衍は「将校と共に帰国を謀った」として偽枢密使の宋光嗣・景潤澄、南北院宣徽使の李周輅・欧陽晃ら4人を「異謀を熒惑した」として斬りその首級を送ったが効なく、この日、衍は表を上って「臣衍の先人の建は久しく坤維(西南)を受け先朝の寵沢を受けて久しく40年に至った、頃者、梁の孽(梁の簒奪)による洪図の版盪により助けとなるものがなく権に従い衆情に狥い三蜀の王に留まった、固より已むを得なかったこと、帰する所がなく臣は輒ちその基業を紹ぎ生聚を安んじたに過ぎない、伏して惟うに皇帝陛下は堯舜の業を嗣ぎ陽武の師を陳ね寰区を廓定し兇逆を削平され、梯航は垂に集い文軌は混同す、臣は方に改図を議し便ち納款を期していたところ、遽かに王師の致討を聞き実に驚危を抱いた、今、千里の封疆はすべて王土となり万家の臣妾は皆皇恩に沐すことを冀う、輿櫬を将て降を乞い荊を負い命を請う、伏して惟うに皇帝陛下の照臨の造を㢠廻され覆幬の仁を施し、別に哀矜を示して反側を安んじ、墳塋を存させて祀を獲れば実に存没ともに帰する所を知ろう、臣は望恩䖍禱の至りに任えない」と述べた。己酉年11月、衍がこの表を上ったその月27日、魏王が成都の北5里の昇仙橋に至ると、偽の百官が橋下に班し、衍は行輿に乗り素衣白馬で羊を牽き草縄で首を繋ぎ璧を啣み櫬を輿いて降った。魏王は下馬してその璧を受け、崇韜がその縛を解き櫬を燔き、衍は偽の百官を率いて東北に向かい舞蹈して謝恩、礼が終わって魏王に拝し、崇韜・李厳もともに答拝した。28日、王師が成都に入城、師を起こしてから入蜀城まで凡そ75日であった。