舊五代史卷一百三十六 僭偽列傳第三 王建

陳州項城の人。唐末の混乱の中で忠武軍から身を起こし、西川を奪って蜀の地を統一した。梁の建国後、成都で自ら帝を称して蜀(前蜀)を建て、永平と改元した。在位12年、72歳で卒した。

年表(5件)
  • 光啓初885年楊復恭に疎まれ壁州刺史に出される
  • 光啓3年887年東川の兵を接収して成都を攻めるが3日で退く
  • 龍紀元年889年制により検校太傅・成都尹・西川節度副大使知節度事に任じられる
  • 大順末890年梓州を攻めるが李茂貞の援軍により囲みを解く
  • 景福中(892-)893年東川の梓州を奄襲して顧彦暉を捕らえ、両川を併有する

出自と忠武軍時代

  • 王建は陳州項城の人。唐末、忠武軍に隷した。秦宗権が蔡州に拠り重賞で兵を募ると、建は行間から身を起こし軍侯に補された。広明中(880-881年)、黄巣が長安を陥し僖宗が蜀に幸した頃、梁祖(朱全忠)がまだ黄巣の将として襄・鄧を攻めており、宗権は小校の鹿晏弘に監軍楊復光の統率のもとで討伐に従わせ、建もこの行に加わった。この歳、復光は京師救援に赴き、翌年賊を破って京城を回復した。もと復光は忠武軍8千人を8都に編成しており、晏弘と建はそれぞれ一都の校であった。
  • 復光の死後、晏弘は8都を率いて行在(僖宗の避難先)を迎え、山南に至って金・商諸郡を攻略し数万の兵を得て興元節度使の牛叢を追放、自ら留後を称し建らの属郡刺史を任地に赴かせずにいた。まもなく晏弘が正式に節旄を授かると部下の謀反を恐れ猜疑を強め、建は別将の韓建と親交を結んだ。晏弘が二人を厚遇するふりで寝所に招くと、二人は懼れて夜城に登り、月下で謀を練り「僕射の甘言厚徳はかえって我らを疑っているということだ、禍いは近い、早く利を選ぶべし」と韓建に説き、3千人を率いて行在に趨り僖宗に嘉された。部隊は5千を分けて五都とされ晋暉・李師泰・張造と二建(王建・韓建)が旧校のまま統率し「随駕五都」と号され、田令孜はみな仮子とした。僖宗の還宮後、建らは神策軍を分典し遥領刺史となった。
  • 光啓初(885年)、僖宗が再び興元に幸した際、令孜は圧迫を懼れ西川監軍を求め、楊復恭が観軍容使に代わった。建らはもと令孜に厚遇されており、復恭は自分に従わないことを懼れて五将を郡守に出し、建は壁州刺史とされた。

蜀地平定

  • 天子が還京すると、復恭は楊守亮に興元を鎮させ、特に建の勢力伸長を懼れてしばしば召還しようとした。建はその郡に安んじられず、溪洞の豪猾を招合して8千の衆を得て閬州を攻略し、さらに利州を攻めると刺史の王珙は城を棄てて逃げた。建は二郡を播剽し至る所で殺掠、興元節度使の楊守亮も制御できなかった。東川節度使の顧彦朗はかつて闗輔で共に賊を破った縁があり、しばしば人を送って労問し貨幣・軍食を分与したため、建は梓・遂を侵さなかった。
  • 西川節度使の陳敬瑄はこの膠着を憂い監軍田令孜に「王八(建)は私の子のようなもの、彼に他意はない、ただ山南で進退窮まっているだけだ、一書で招けば座して置くことができよう」と謀り、飛書で建を招いた。建は大いに喜び彦朗に「監軍阿父が招いてくれた、成都に赴き陳太師に依れれば大都を得られよう」と言い、梓州で家族を東川に留め、精甲3千を率いて成都に向かったが、鹿頭に至った時、ある者が敬瑄に「建は今の劇賊、鴟のように視、狼のように顧み専ら人の国邑を謀っている、もし彼が至った時どう処するのか、もし将校として遇せば虎を養い患いを残すようなものだ」と説いたため、敬瑄は懼れて建を止めようとし城守を修めさせた。建は怒って漢州に拠り、軽兵で成都に至ると敬瑄は「彼は何者だ、我が疆理を犯すのか」と咎めた。建の軍吏は「閬州司徒は東川に寄食しながら軍容太師(令孜)の使者に招かれ続けて赴いたのに、なぜ今拒絶するのか、司徒は轅を改めて東西どちらへも赴かず、なぜ太師まで拒絶に転じたのか、梓州にはばかり相嫌う懸念があってのことか、我らはただ漢州に寄食したいだけだ」と報じた。
  • 光啓3年(887年)、居ること旬日で建は東川の兵をことごとく取り、梯衝を設けて成都を攻めたが3日で克たず退き、漢州を保つこと月余り、大いに蜀土を掠め彭州に迫って百道でこれを攻めた。敬瑄は兵を出して援けると建は囲みを解いて縦兵し11州を大いに掠め、民は聊生できなかった。建の軍勢は日に日に盛んになり、再び成都を攻めると敬瑄は患い、顧彦朗もまた自らへの侵攻を懼れた。昭宗の即位後、彦朗が上表して大臣を蜀帥に択び敬瑄を他鎮に移すよう請うと、朝廷は宰臣の韋昭度を蜀に鎮させ敬瑄に代えようとしたが、敬瑄は代わりを受け入れず、天子は怒って顧彦朗・楊守亮に討伐を命じた。
  • この時、昭度は建を牙内都校としてその部兵を董させたが、王師は戦功がなかった。建は昭度に「相公は数万の衆を興して賊を討つも未だ効なく、餉運も続かない、近頃洛陽以来藩鎮が相噛み合うと聞く、朝廷も姑息せざるを得ない状況で、蛮方の討伐に労するより従って赦す方が良い、兵威を以て中原を靖んじることこそ国の本、相公はどうか帰朝して主上と図られてはどうか」と説いたが昭度は疑って決しなかった。ある日、建は密かに軍士に命じて行府門外で昭度の親吏を捕らえさせ食わせ、これを軍士の飢えによるものと昭度に告げた。昭度は大いに懼れ符節を建に留め即日東へ帰ろうとしたが、剣門を出るや建は厳兵で門を守り東軍を通さず、月余りで西州の管内8州を攻略しついに成都に迫った。
  • 田令孜は城上から「老夫と八哥(建)は久しい親交、太師も久しく知る仲、なぜこれほど我を苦しめるのか」と問うと、建は「軍容(令孜)父子の恩は忘れるものではありませんが、天子が兵柄を私に付されたのは太師が朝廷から孤立していたため、太師が心を改められれば何の幸いかこれに如かず」と答え、令孜は「私は八哥と軍中で款を通じたい、いかがか」と問うと建は「父子の義に何の嫌いがありましょう」と応じた。その夜、令孜は蜀帥の符印を携えて建の軍に降り、建は泣いて謝した。「太師の初心が大きく過ぎたゆえ今日のような相戻る事態になった、今こそ心を一切旧に復すべきだ」と告げると、翌日、敬瑄は関を啓いて建を迎え、蜀帥を建に譲った。建はまず自ら留後を称し、翌年(龍紀元年、889年)、制により検校太傅・成都尹・西川節度副大使知節度事・管内観察処置雲南八国招撫等使に任じられた。敬瑄は雅州に移されたが、道中で建の命により殺され、令孜はなお監軍に留まったが後に鳳翔への内通が発覚し獄死した。

西川領有と僭号

  • 建は雄猜多機略で、意はつかみがたく、蜀を得た後は東川をも窺ったが彦朗との旧来の婚姻関係のため果たせなかった。彦朗の卒後、弟の彦暉が梓帥を継ぐと交情は次第に怠り、李茂貞がその隙に乗じ密かに彦暉と結び、闗の征疆吏の間に蜀人との得失が生じた。大順末(890年)、建が出師して梓州を攻めると彦暉は鳳翔の李茂貞に援を求め岐兵が救援に出たため建の囲みは解けた。以後、秦(岐)と蜀の対立は数年に及んだが、後に建が蜀軍を大いに起こし岐・梓の軍を利州で破ると彦暉は懼れて和を乞い岐との盟を絶つことを約し、建はこれを許した。景福中(892-893年)、山南の軍が東川を冦すと彦暉は建に援を求め、建の出兵は興元の軍を大破したが、軍が旋る隙に建は虚に乗じて梓州を奄襲、彦暉を捕らえて成都に置き、両川を併有した。以後、軍勢はますます熾んになった。
  • 天福初(天復初の誤りか)、李茂貞・韓全誨が車駕を鳳翔に迫らせ梁祖が歴年これを攻囲した際、建は表向き汴(梁)に好を修めつつ密かに茂貞とも使者を往来させ堅壁して和せぬよう勧め、援兵を約しつつ実際は諸軍に興元攻略を命じ、梁祖の囲みが解ける頃には茂貞の山南諸州はことごとく建に取られ自ら守将を置くに至った。茂貞が力衰えて天子が洛陽に遷った後も、建はさらに茂貞の秦・隴等州を攻め、茂貞は削弱し守れなくなった。ある者が建に鳳翔まで取るよう勧めたが建は「それは失策だ、我が得た所すでに多い、これ以上岐下に増す必要はない、茂貞は常才とはいえ名望は宿からあり朱公(梁祖)と力を争って守るには余りあろう、韓生(韓非子)のいう『入りては扞蔽となり出でては席藉となる』とはこのことだ、援けてこれを固めるのが我が盾鹵とするに宜しい」と述べた。
  • 梁祖が強いて禅譲を謀ろうとすると建は諸藩とともにこれに反対し、将の康晏に3万の兵を率いさせ鳳翔に会させ、汴将の王重師としばしば戦ったが不利で退いた。趙匡凝が荊襄を失った際、弟の匡明が一族を挙げて蜀に奔り、建はこれにより夔・峡・忠・万等州を得た。梁の開国後、蜀人は建に劉備の故事に倣うよう請い、建は成都で自ら帝を称し永平と改元、5年後に通正、その年冬に天漢、さらに光天と改元、在位12年、72歳で卒し、子の衍が嗣いだ。