舊五代史卷一百三十五 僭偽列傳第二 劉崇

太原の人、後漢高祖劉知遠の従弟。乾祐3年(950年)に隠帝が殺され甥の劉贇の即位が挫かれると、周広順元年(951年)に河東で漢を僭称して北漢を建てた。契丹に事えて援けを求めたが、高平の戦いで周世宗に大敗し、以後国力は衰えた。

年表(6件)

出自と河東割拠

  • 劉崇は太原の人、漢高祖(劉知遠)の従弟である。若くして無頼、陸博・意銭の博打を好み、弱冠で河東軍に隷属した。唐長興中、虢州軍校に遷り、漢祖が并汾に鎮した際、河東歩軍都指揮使に奏せられ、翌年麟州刺史を授けられ、さらに河東馬歩軍都指揮使・三城巡検使を兼ね泗州防禦使を遥領した。漢祖が河東で挙兵すると崇は特進検校太尉・行太原尹となり、この歳5月、漢祖が南行すると崇は北京留守となり、まもなく同平章事を加えられた。隠帝の嗣位で検校太師・侍中を加えられ、乾祐2年(949年)9月、兼中書令を加えられた。
  • この頃、漢の隠帝は幼くして位にあり政は大臣が握っていたが、崇もまた亡命者を招募し兵甲を繕い自衛の計を立て、朝廷の命令にはあまり従わず、一方的な徴斂を絶やさなかったため人々はこれをひどく苦しんだ。乾祐3年(950年)11月、隠帝が殺されると朝廷は崇の子で徐州節度使の贇を主に立てようと議したが、折しも周太祖(郭威)が軍衆に推戴され、贇は湘陰公に降封された。崇は牙将の李瓌に書を持たせて贇を藩に帰すよう求めたが、すでに贇は死しており、朝廷はただ優辞をもって答えるのみであった。

僭号北漢と高平の敗北

  • 周広順元年(951年)正月、崇は河東で漢を僭称し、名を旻と改め乾祐の年号をなお用い、子の承鈞を侍衛親軍都指揮使・太原尹とし、判官の鄭珙・趙華を宰相、副使の李瓌・代州刺史の張暉を腹心とした。まもなく承鈞に兵を率いさせ晋・隰の二州を攻めさせたが克たずに退いた。9月、崇は自ら兵を率い陰地関から晋州に冦し契丹に援を乞い、契丹は5千騎でこれを助け合兵して平陽を攻め、また分兵して昭義にも冦した。周太祖は枢密使の王峻らに大軍を率いさせ晋・絳を援けると、崇は周軍の到来を聞いて営を焼いて遁走した。この歳、晋・絳は大雪に見舞われ、崇は60余日駐軍したが辺民は険に逃げ込み兵は掠める所もなく士は飢色を帯び、太原に至った時には十のうち三、四を失っていた。広順2年(952年)2月、崇は兵3千余で府州に冦したが折徳扆に破られ、崇の部下の岢嵐軍は徳扆に奪われた。崇は僭称してより重幣を契丹に送って援を求め、侄と称して事え、契丹は偽って英武皇帝に冊した。
  • 周世宗の嗣位後、崇はまた契丹に乞師して入冦を図り、契丹は将の楊袞を遣わし合勢して潞州に迫った。顕徳元年(954年)3月、周世宗は親征し崇と高平で戦い大いにこれを破った。崇は親騎十数人と山を越えて遁走、夜半は迷い方向も分からず、村民を掠めて道案内をさせたところ誤って晋州の路に向かい100余里進んでようやく気づき、崇は怒って道案内の者を殺し別の道を得て逃げた。名号を変え毛褐を被り樺笠を張って行き、沁州に至って従者三、五騎と共に郊舎に留まり寒餒はなはだしく、密かに偽刺史の李廷誨に告げると廷誨は飡を持たせ衣裘を解いて与えた。至る属邑では県吏が食事を供しても匕箸を挙げる間もなく周師到来の報に蒼黄として逃げ去った。崇は年老いて力憊れ馬上に伏して日夜奔竄し、太原まで一舎の距離でようやく支えきれるほどであったが、子の承鈞が夜、兵百人でこれを迎え入った。周師が城下に臨むと崇は恐れて自ら壘を閉じ出でず、月余りで世宗は軍を旋した。顕徳2年(955年)11月、崇は病により死去、子の承鈞が偽位を襲った(承鈞の事跡は皇家日暦に詳しい)。

史論

  • 史臣曰く、劉守光が天に逆らい道に反したことは古来類がなく、刑に臨んでもなお死を免れようとした様は、悪の極みであるだけでなく愚の極みでもある。劉晟は南極(嶺南の果て)に拠って一方の雄を称え、中原多事の間に代を重ね、我が昌朝(治世)に力尽きて亡んだとはいえその嗣を絶やさなかったのは、また幸いというべきである。劉崇は亡国の余燼をもって偽王の号を窃んだのであり、身の程を知らぬことが多かったといえる。今、元悪(大罪の主)はすでに斃れたが遺孽(残された悪の血筋)はなお存し、勢いは蹙まり民は残え、亡ばずにいられようか。