即位と亡国
- 鋹は晟の長子である。偽って衛王に封じられた。晟の卒後、偽位を襲いこの時17歳、大宝と改元した。鋹は性が庸懦で国政を治めることができず、政事はことごとく閹宦に委ねられ、さらに宮人で冠帯を具えて職官に擬し外事を理める者もあり、これにより綱紀は大いに壊れた。
- これより先、広州の法性寺に一株の菩提樹があり、高さ140尺・大さ10囲、梁の時代に西域の僧真諦が手ずから植えたと伝えられ、すでに400余年を経ていたが、皇朝乾徳5年(967年)夏、大風に抜かれ、この歳の秋には鋹の寝室がしばしば雷震に見舞われ、識者はその必ず亡ぶを知った。皇朝開宝3年(970年)夏、王師は南征を議しはじめ、開宝4年(971年)2月5日、王師が広州に迫ると鋹は府庫をことごとく焼き払い自ら火に投じて死のうとしたが果たせず、まもなく王師に捕らえられ、一族を挙げて京師に遷された。皇上(宋太祖)は赦して誅せず、なお爵位を賜って恩赦侯とした。その後の事は皇家日暦に詳しい。陟が梁貞明3年(917年)に僭号してから三世四主を経て、皇朝開宝4年(971年)に至るまで、およそ55年で滅亡した。