舊五代史卷一百二十三 周書第十四 列傳三(高行周・安審琦・安審暉・安審信・李從敏・鄭仁誨・張彦成・安叔千・宋彦筠)
高行周(字尚質)
- 幽州の人、媯州懐戎軍の鵰窠里に生まれる。曽祖高順は代々懐戎を守り、父高思継ら兄弟三人は武勇で知られた。唐武皇(李克用)が幽州を平定した際、劉仁恭を帥に立て、高氏兄弟は先鋒・中軍・後軍の都将として燕兵を分掌した。武皇は仁恭に「高氏兄弟は州府を傾ける勢いがあり、燕の禍になるだろう」と警告していたが、後に太原の戍軍が思継兄弟に処罰されたことに武皇が怒り、仁恭を責めたため、高氏兄弟は皆殺された。仁恭は先鋒の子高行珪を牙将とし、行周ら諸子も帳下に置いて慰撫した。行珪には別伝がある。
- 荘宗が燕を収めると行周は明宗の帳下に属し、唐末帝と牙兵を分率した。梁の劉鄩が莘に拠った戦いで、元行欽が敵に囲まれ危機に陥った際、行周が精騎で突入し救った。莊宗が行欽を寵愛するあまり行周も帳下に招こうとしたが、行周は「総管に仕えることは国家に仕えることと同じ」と固辞したという。明宗の鄆州襲撃では夜半の豪雨に乗じて渡河・入城し平定に貢献。荘宗の河南平定後、検校太保・端州刺史を歴任。
- 明宗即位後は重用され、王晏球の定州攻めで功を立て潁州団練使、その後振武・延安・潞州の節度使を歴任。晋祖(石敬瑭)の挙兵時、張敬達に従い契丹と戦い敗れ晋安砦に籠城、楊光遠の敬達暗殺の陰謀を察して護衛したが、敬達はその意図を怪しみ遠ざけたため、結局光遠に殺害された。晋祖入洛後、行周は西京留守・鄴都留守を歴任、安従進の乱を平定。
- 少帝の代には侍衛親軍都指揮使・鄆州節度使となるが、李彦韜が権を握る中、行周は自ら距離を置き、退朝後は静かに暮らした。契丹の中原侵入後も態度を保ち、契丹の遼王擁立の誘いを病と称して固辞。漢の高祖入汴後、天平節度使・招討使として杜重威の鄴の叛乱を討ち、太師・鄴王、後に斉王に進封。周太祖即位後は尚書令、食邑一万七千戸を加えられ、耆年の宿将として詔書に諱を書かれず「王位」と呼ばれる礼遇を受けた。慕容彦超の兖州の乱では家財を傾けて親征を支えた。広順二年秋、在職のまま病により薨去。享年六十八。尚書令を追贈、奉王に追封、諡「武懿」。子の懐徳は皇朝の駙馬都尉・宋州節度使となった。
安審琦(字国瑞)
- 沙陀部の出。祖父安山盛は朔州牢城都校、父安金全は安北都護・振武軍節度使。荘宗に仕え義直軍使、天成初め唐末帝の牙兵都校となり、蜀征伐にも従軍。清泰初め捧聖指揮使・順化軍節度使、邢州鎮守を経て張敬達の太原包囲に従軍、楊光遠の晋安寨投降に加わり晋祖に仕える。天平軍節度使・侍衛馬歩軍都指揮使を歴任し河中に移鎮。
- 開運末、北戎侵入の際、洺州で会戦。皇甫遇が矢に当たり危機に陥った際、諸将が救援を躊躇う中、安審琦は「成敗は天命、行かねば天子に合わせる顔がない」と単騎で救出に赴き成功した。漢建国後は襄州節度使兼中書令、荊人の叛乱を防ぎ、太保・斉国公、後に太傅に進む。周建国後は南陽王、顕徳初め陳王に進封。世宗即位後も太尉、太師に進み、食邑一万五百戸実封二千三百戸に至る。襄沔の鎮守は約十二年に及び厳しくも暴虐でなく、民に慕われたという。
- 顕徳五年、平盧軍節度使として赴任の途中、世宗が自ら邸宅を訪ねる厚遇を受けたが、顕徳六年正月七日夜、隷人安友進・安万合に殺害された。享年六十三。友進は審琦の愛妾と通じており、露見を恐れた妾が友進に殺害を強要し、審琦が泥酔して眠っていた隙に事に及んだという。事後、妾と口封じのため妓女数人も殺されたが、間もなく友進らも露見して捕えられ、審琦の子守忠により処刑された。世宗は震悼し輟朝三日、尚書令を追贈、斉王に追封。守忠は皇朝で郡守を歴任した。
安審暉(字明遠)
- 審琦の兄。長直軍使から出発し荘宗の幽薊平定・河南平定に従軍、蔚州刺史・汝州防禦副使などを歴任。晋高祖の代に振武兵馬留後、河陽節度使、鄜州節度使。李金全の安州叛乱では馬全節の副将として平定に功あり、鄧州節度使、検校太傅。襄州安従進の乱では南陽の城壁の乏しい状況で守りきり、検校太尉。少帝の代に検校太師、邢州節度使を経て、目の病により職を辞し帰京。
- 太祖(郭威)即位後、内殿で謁見され重んじられたが、老齢を理由に太子太師致仕・魯国公に封じられた。広順二年春卒去。享年六十三。廃朝二日、侍中を追贈、諡「静」。子の守鏻は皇朝で贊善大夫となった。
安審信(字行光)
- 審琦の従父兄。父安金祐は沙陀部の偏裨として名を馳せた。振武節度使であった父の下で牙将となり、後に滄州節度使であった兄安審通の下で衙内都虞候。晋祖の挙兵に際し部下を率いて先んじて太原に逃げ込み、晋祖に喜ばれたが、妻子は唐末帝に殺された。晋安砦の降伏後、汾州刺史・馬歩軍副部署、晋祖入洛後は河州節度使。
- 性格は疑い深く、蒲州にいた際は使者の随員数に応じて密かに防備を固めるほどであった。歴任した州では聚斂を専らとし民に苦しめられた。北伐の際は馬歩軍右廂都排陣使、後に華州・同州節度使を経て左衛上将軍・右金吾上将軍。周建国三年夏、入閣に遅参して御史に弾劾されたが、病により心神が朦朧としていたとして釈明し、逆に自らの多額の進奉を誇示して弾劾を退けたという逸話が伝わる。まもなく病により太子太師致仕。その年秋に卒す。享年六十。侍中を追贈、諡「成穆」。
李從敏(字叔逹)
- 唐明宗の甥。沈厚寡言で騎射に優れ計数にも長けた。荘宗に召され衙内馬軍指揮使、汴洛平定に従軍。明宗の鎮州赴任時に成徳軍馬歩軍都指揮使を表され、明宗入洛後は皇城使、陝府節度使、王都の定州叛乱討伐では副将として活躍。範延光に代わり成徳軍節度使、涇王に封ぜられた。
- 鎮州で富商劉方遇の遺産をめぐる訴訟(妻弟田令遵が財産を横領した疑い)で、獄事の処理が不正であったことが露見し、從敏の妻が明宗の王淑妃に直訴する事態となった。明宗は激怒したが王淑妃の庇護もあり、關わった趙環ら三人は棄市、從敏自身は罰俸に留まった。
- 長興初め宋州に移鎮。唐末帝の挙兵に際し、その子重吉(毫州防禦使)を朝命により誅殺したことなど、複雑な政局を渡り歩いた。晋の代には莒国公に降封、河陽節度使などを経て、漢の入汴後は西京留守。隠帝の代に秦国公。広順元年春、病により卒す。享年五十四。中書令を追贈、諡「恭恵」。
鄭仁誨(字日新)
- 晋陽の人。父鄭霸は太子太師を追贈。若い頃、唐の驍将陳紹光が酔って剣を振り回した際、他の者が皆逃げる中、仁誨だけが泰然と立ち動じなかったことから、紹光に「富貴を得る器量あり」と評された。漢高祖が河東にあった頃から太祖はしばしばその邸を訪れて語らい、その識見を高く評価した。
- 漢建国後、太祖の従職となり西征でも密かに軍機を輔佐。太祖即位後は檢校司空・客省使兼大内都点検、樞密副使、宣徽北院使を経て樞密使兼同平章事に至る。世宗の北征時には東京留守として軍需の調達に尽力。顕徳二年冬に病篤くなり、世宗自ら邸を訪ね見舞い、卒去時には遠征を控えていたにもかかわらず自ら喪に臨み哭した(周囲の「不宜臨喪」との進言を退けて礼を尽くしたと評された)。中書令を追贈、韓国公に追封、諡「忠正」。翰林学士陶穀が神道碑文を撰し官費で建立された。子の勲は早世し嗣を絶った。かつて仁誨が王殷の鄴都巡検の際、詔に従わず即座にその子を殺し家財・妓楽を奪ったことがあり、その後嗣が絶えたのを陰徳の報いと見る者もあった。
張彦成
- 潞城の人。曽祖・祖・父ともに地方官を歴任。天成中、鄆州都押牙、後に漢祖の行軍司馬となり、隠帝がその娘を娶ったことで厚遇された。汴洛平定に従軍し検校太尉・同州節度使。隠帝即位後に同平章事。太祖の河中討伐に輜重補給で貢献し検校太師。乾祐三年冬、相州に移鎮、広順初め侍中を兼ね、後に南陽(襄陽)に移鎮。三年秋、任を退き右金吾衛上将軍となり、その秋病で卒す。享年六十。侍中を追贈された。
安叔千
- 沙陀三部落の出。父安懐盛は唐武皇に驍勇で仕えた。荘宗の河南平定に従軍。天成初め王師の定州討伐で先鋒都指揮使、平定後に泰州刺史、涿州・易州の判官を兼ねる。清泰初め契丹の雁門侵入を晋祖とともに撃退し検校太保・振武節度使。晋祖即位後は同平章事、邠・滄・邢・晋の四鎮節度使を歴任した。粗野で無文なため「安没字」(碑文の文字なき碑石の意)と呼ばれた。
- 開運初め北伐の行営都排陣使、後に契丹入汴の際、契丹主に「そなたは安没字か」と声をかけられ、邢州節度の折に契丹への内通実績を評価されたという(本人にとっては不名誉な逸話)。鎮国軍節度使を経て、漢初は前歴を恥じつつ太子太師致仕。広順二年冬卒す。享年七十二。侍中を追贈。
宋彦筠
- 雍丘の人。滑州軍に属し、梁と荘宗の夾河の戦いで戦棹都指揮使として功をたて開封府牙校に昇進。荘宗の天下取得後、禁軍を統率し蜀征伐にも従軍。維州・渝州刺史を経て、明宗代に数郡を歴任。晋初め安従進討伐の功で鄧州節度使、検校太尉。晋少帝の代に再び鄧州、河中と移鎮。漢初め太子太師致仕、周建国後は左衛上将軍、世宗代に再び太子太師致仕。顕徳四年冬、西京の私第で卒す。輟朝一日。侍中を追贈。
- 蜀の成都に入城した際、大邸宅とその財貨・妓女を奪ったが、主母を些細な諍いで殺害したことから心が休まらず、仏事に傾倒。歳ごとに釈迦入滅の日に喪服を着て像の前で号泣するほどの信仰ぶりを示したが、当時の人々から嗤われた。一方で蓄財にも熱心で田荘・邸宅を多く所有し、死に際して伊洛の田荘十数区を国に献上した。
史論
- 史臣は評す。近代、軍を率いて王爵を列した者で、禄が厚くとも君子に非難されず、権威が重くとも君主に疑われず、酒宴の間に自らを韜晦して功名を全うできた者が、高行周のような人物のほかに幾人あろうか。代々藩鎮を保ったのも当然である。安審琦は閫外の労はあったが家を治める道に欠け、非業の死を遂げたのは不幸というべきだろう。その他の者は戎旃を擁したとはいえ閫政の評判は聞かれず、文翁・召信臣・龔遂・黄覇のような名吏には遠く及ばない。