舊五代史卷一百二十二 周書第十三 宗室列傳二(剡王侗・杞王信・越王宗誼・曹王宗讓・紀王熙謹・蘄王熙誨)
剡王侗
- 太祖の子。初名は青哥。漢末に遇害。太祖即位後、太尉を追贈し名を「侗」と賜う。顕徳四年に剡王へ追封された。
杞王信
- 太祖の子。初名は意哥。漢末に遇害。太祖即位後、司空を追贈し名を「信」と賜う。顕徳四年に杞王へ追封された。底本はこの二子の記述が簡略に過ぎ、削節の疑いがある。『歐陽史』家人伝によれば、太祖が魏で挙兵した際、漢が邸を包囲し、張貴妃と諸子(青哥・意哥・姪の守筠・奉超・定哥)が皆誅されたという。太祖即位後、青哥に太尉を贈り名を「侗」、意哥に司空を贈り名を「信」、甥守筠に左領軍衛将軍を贈った(守筠の音が「栄」に近いため世宗が諱を避けて「守愿」と改名)、奉超に左監門衛将軍、定哥に左千牛将軍を贈り名を「遜」とした。顕徳四年夏四月、世宗の詔により、侗を太傅・剡王、信を司徒・杞王に、守愿を左衛大将軍、奉超を右衛大将軍、遜を右武衛大将軍にそれぞれ追贈・追封したという。
越王宗誼
- 世宗の子。漢末に遇害。顕徳四年に越王へ追封された。
曹王宗讓
紀王熙謹
- 世宗の子。顕徳六年に封ぜられた。皇朝(宋)乾徳二年に卒した。
蘄王熙誨
- 世宗の子。顕徳六年に封ぜられた。『歐陽史』家人伝によれば、世宗には子七人あり、長子宜哥、次の二子は未だ名付けられず、四子は恭皇帝(宗訓)、五子熙讓、六子熙謹、七子熙誨で、母がそれぞれ誰であるかは不明という。宜哥とその弟二人は漢に誅された。太祖即位後、皇孫に「誼」の名を賜い左驍衛大将軍、「諴」に左武衛大将軍、「誠」に左屯衛大将軍を贈った。顕徳三年、群臣が宗室の封爵を請うたが、世宗は「国を治めて日浅く恩信がまだ人々に及んでいない、功徳が大成し慶が世に流れてから議すべき」と答えた。翌年(顕徳四年)夏四月癸巳、まず太祖の諸子を封じ、さらに詔して誼を太尉・越王、諴を太傅・呉王、誠を太保・韓王に贈り、在世の皇子はまだ封じなかった。顕徳六年、三関からの帰還途上で発病し、六月癸未、皇子宗訓を梁王、宗讓を燕国公に拝したが、その十日後に世宗が崩じ、梁王が即位して恭皇帝となった。その年八月、宗讓は名を熙讓と改め曹王に、熙謹・熙誨も新たに右武衛大将軍・紀王、右領軍衛大将軍・蘄王に封じられた。乾徳二年十月、熙謹が卒し、熙讓・熙誨のその後の消息は伝わらないという。