舊五代史卷一百二十四 周書第十五 列傳四(王殷・何福進・劉詞・王進・史彦超・史懿・王令温・周密・李懐忠・白文珂・白延遇・唐景思)
王殷
- 瀛州の人。曽祖・祖は地方官、父咸珪は唐末の幽滄大乱を避け魏軍に投じた。殷は魏州開元寺で生まれたと自ら語り、偏将から華州馬歩軍副使、靈武都指揮使、原州刺史を経て、清泰中の張令昭の鄴叛乱討伐で功を立てた。性は謙謹で母に孝、刺史として政事に落ち度があれば母に庭で杖責されたという(自ら婢僕に命じて母の前で笞を受けたとも伝わる)。
- 晋の天福年間、母の喪に服したが起復の詔を受け、母の喪を全うしたいと固辞して晋高祖に許された。少帝代に禁軍を統率、漢祖の鄴討伐に従い矢傷を負う武功を立て、乾祐末には侍衛歩軍都指揮使兼夔州節度使。契丹侵入時に澶州を守り、漢隠帝の乱の際、澶帥李洪義とともに太祖の内乱鎮定を助け、太祖即位後は天雄軍節度使兼同平章事となり、河北の軍事の実権を握った。
- しかし民間からの過度な聚斂などで太祖の不興を買い、王峻失脚の際にも殷への牽制がなされた。永寿節の入覲を望んだが太祖に警戒され、郊祀を前に武装した部下数百人を伴い威容を示したことで震主の疑いを深め、太祖は病をおして出御し殷を捕縛、流罪の制を降ろした後、都を出たところで殺害した。当時、不吉な前兆(鄴城の寺の鐘が落ちる、幡竿に火が出る、殷が馬から落ちる)が語られたという。太祖はさらに澶帥鄭仁誨を鄴へ遣わし、殷の子で衙内指揮使であった者も謁見拒否を理由に誅殺、家族は登州へ遷された。
何福進(字善長)
- 太原の人。父何神剣は左驍衛大将軍を追贈。若くして従軍、唐同光末の郭従謙の莊宗包囲では宿衛軍校として孤軍奮闘し明宗に評価された。磁州刺史・北面行営先鋒都校、鄭州・隴州の防禦使を歴任。開運中、契丹の中原制圧後、文武臣数十人とともに帳下に随行させられたが、鎮州で契丹の敗死を聞き李筠・白再栄らと契丹勢力を駆逐、漢祖の北面行営馬歩都虞候に任じられ曹州防禦使。
- 太祖の鄴での北伐計画に従い、太祖の内乱鎮定を補佐した功で忠武軍節度使、後に鎮州へ移鎮し数年間北辺を安定させた。太祖の南郊の礼に際し入覲を願い天平軍節度使兼同平章事に転じたが赴任前に東京の私第で卒す。享年六十六。顕徳元年正月のことであった。中書令を追贈。子の継筠は皇朝で建武軍節度使となり卒した。
劉詞(字好謙)
- 元城の人。梁の貞明年間、鄴帥楊師厚に仕え勇悍で知られた。荘宗入魏後も麾下に列し、両河の戦いに常に参加。同光初め效節軍使、劍直指揮使を経て、権臣に忤って汝州の小校に落とされ十余年滞留。清泰初めの選抜で禁軍に復帰。晋初め侯益の汜水関奪回、楊光遠の鄴平定に従軍、馬全節の安州討伐で淮賊万余を破る功を立て奉国都校。杜重威に従い安重榮を破り、鎮陽包囲では自ら雲梯に登り功を立てた。
- 「勇敢さで富貴を得た以上、一日も本分を忘れてはならない」と、平時も甲を着て戈を枕に寝たという逸話が伝わる。漢建国後も奉国右廂都校を務め、太祖の鄴平定に従軍。乾祐初め李守貞討伐で行営馬歩都虞候として河西に駐屯。守貞の夜襲軍を前に、他の将が動揺する中、詞は「小盗に過ぎぬ」と冷静に指揮し撃退、以後守貞は攻勢に出られなくなった。河中平定後、華州節度使、後に邢台・河陽と移鎮、同平章事。
- 顕徳初め世宗の劉崇親征に従軍、高平の戦いで樊愛能らが敗走を伝え引き止めようとしたが詞は聞かず北進し、世宗に賞賛され随駕都部署・河東道行営副部署に任じられた。夏、還京後は永興軍節度使兼侍中・京兆尹。二年冬、鎮所で病により卒す。享年六十五。中書令を追贈、諡「忠恵」。軍校から身を起こし常に忠勇を自負し、藩鎮を治めては苛政で民を煩わせず、その諡は衆に認められた。子の延欽は皇朝で控鶴廂使となった。
王進
- 幽州良鄉の人。若くして落魄し盗賊の徒を集めていたが、符彦超に招かれ側近となる。長興初め安州で部曲の反乱を朝廷に急報した功で明宗に称賛され軍に隷属。契丹侵入時の膠口の戦いで六十七人を単独で捕えた俊足ぶりが漢祖に評価され馬前親校となり、以後、封章を短期間で都に届ける使いも務めた。太祖の内乱鎮定に従い虎捷右廂都指揮使、汝州・鄭州防禦使を経て相州節度使となったが、統治の評判は以前より劣ったという。顕徳元年秋、任地で病により卒す。検校太師を追贈。
史彦超
- 雲州の人。驍勇で胆気に富み、龍捷都指揮使まで昇進。太祖の内乱鎮定に従い、建国後は虎捷都指揮使何徴とともに晋州を守り、劉崇と契丹の連合軍の包囲を約一月にわたり撃退、樞密使王峻の援軍到着で敵が退いた。太祖に功を賞され龍捷右廂都指揮使、鄭州防禦使。劉崇の潞州侵攻に際し先鋒都指揮使として親征に従い、高平の戦いで先駆けし華州節度使に任じられた。忻代方面での契丹への追撃戦で、先鋒として大軍から離れすぎたため伏兵に遭い戦死。世宗は深く痛惜し太師を追贈、家族の優遇も命じた。
史懿(字繼美)
- 代郡の人。本名は太祖の廟諱に触れるため改名。父史建瑭は荘宗の先鋒都校で、鎮陽討伐中に流矢に当たり戦死。父の死を受け荘宗に召され昭徳軍使、以後先鋒左右廂都校を歴任し家業を継いだ。天成中に涿州刺史、晋初め洺州団練使、亳州・鳳州防禦使。晋祖の弟が晋国長公主を娶ったことで特に重んじられた。開運初め澶州・貝州の節度使を経て涇原に移鎮。契丹の中原制圧に際し諸鎮が靡くなか堅く拒み、漢祖に款を通じた。漢建国後は同平章事、広順初め検校太師兼侍中・邠国公。
- 顕徳元年春、病により帰朝する途中、太祖が周廷璋に涇州の帥(史懿)を図らせようとした計画を廷璋が密かに詔書を示して逃れさせたという逸話が伝わる。洛陽で卒す。享年六十二。中書令を追贈。
王令温(字順之)
- 瀛州河間の人。父王迪は徳州刺史。武勇で知られ、荘宗の麾下から昇進。明宗に従った上谷での契丹戦で、明宗の馬が敵に迫られた際、自らの馬を明宗に与え自身は徒歩で矢を放ち続け敵を退けたという功で厚遇された。晋初め安重榮の乱討伐で杜重威とともに宗城で敵を破り亳州防禦使、後に永清軍節度使。契丹侵入時、詔により入朝していた間に貝州が陥落し家族は契丹に囚われたが、晋少帝に憐れまれ武勝軍節度使、延州・霊武にも移鎮。漢建国後も永清軍・安州節度使、周建国後は同平章事、世宗代に鎮安軍節度使。顕徳三年夏、病により卒す。享年六十二。侍中を追贈。
周密(字徳峯)
- 応州神武川の人。後唐武皇に仕え、莊宗の常山平定・明宗の汶陽襲撃に従軍。莊宗の梁平定後、鎮州馬軍都指揮使、明宗即位後、河東馬歩軍副都指揮使、晋初め冀州刺史を経て右羽林統軍。天福四年、保大軍節度使として部民の反乱を平定、晋州に移鎮。開運中、右龍武統軍から延州に出鎮したが、契丹の中原制圧に伴う延州の内乱で高允権と城を分けて対峙。漢祖の招撫を受けて城を棄て太原へ逃れ、以後長らく都に在って広順初め太子太師致仕。顕徳元年春卒す。享年七十五。長子鋭は皇朝で内職、次子広は諸衛大将軍を歴任した。
李懐忠(字光孝)
- 太原晋陽の人。父李海は本府の軍校。荘宗に仕え夾城の戦いで先登の功をたて、山東平定にも従軍。天成中、陝府・許州・滄州の都指揮使を歴任。晋祖に旧知の間柄として禁兵を任され三度昇進、同州節度使・検校太傅。少帝代に右羽林統軍、左武衛上将軍。広順中に太子太師致仕。三年夏卒す。享年六十六。太子太師を追贈。
白文珂(字徳温)
- 太原の人。父白君威は遼州刺史。後唐武皇に仕え河東牙将、遼州副使、荘宗代に振武都指揮使。天成中、王建立の下で鎮州馬歩軍都指揮使、以後青州・魏府・瀛州・蔚州・忻州・代州を歴任し代州刺史の折には蕃漢馬歩都部署も兼ねた。漢高祖の并門赴任時に副留守、漢建国後は河中節度使兼西南面招討使、後に天平軍節度使兼同平章事、陝州に移鎮。
- 李守貞の河中叛乱に際し、老齢のため主力とはならず太祖の西征を助け、河中平定後は西京留守・河南尹。太祖即位後は中書令を兼ね太子太師致仕、世宗即位後は晋国公に封じられた。顕徳元年、西京で卒す。享年七十九。輟朝一日。子の廷誨は皇朝で諸衛将軍を歴任し卒した。
白延遇(字希望)
- 太原の人。幼くして晋の公宮に養われ、十三歳で晋祖の蜀討伐に従軍し勇猛で知られた。晋建国後、禁軍を歴任し検校司空。天福年間、安重榮の乱で単身先陣を志願し宗城の戦いで数十級を斬り取り、剣が折れるまで戦った功で晋祖から宝剣と良馬を賜った。常山平定後、検校司徒・馬軍左廂都校、汾州刺史、復州防禦使を経て、周建国後は検校太傅。
- 太祖の兖海親征に先鋒都校として従軍、兖州平定後は斉州・兖州防禦使として二年間善政を敷き、民から徳政碑建立の請願が出るほど慕われた。顕徳三年冬、世宗の淮南征討に先鋒都校として従軍、揚州入城の先陣を務め、後に盛唐で淮賊万余を破る。顕徳四年、同州節度使に任じられたが赴任前に再び南征に従い、その年冬、濠州城下で病により卒す。太尉を追贈。
唐景思
- 秦州の人。幼くして屠殺業を営み角觝(相撲)を得意とした。前蜀の軍校を経て、同光中、魏王継岌の蜀討伐の際に固鎮の守備を継岌に降し興州刺史。契丹の攻撃で貝州行軍司馬として捕われ、契丹の趙延寿の帳下に置かれた。契丹の中原制圧後、亳州防禦使として草寇数万の包囲に遭い一時陥落するも、隣郡の援軍を得て奪還。漢初め鄧州行軍司馬として不遇であったが、乾祐年間に沿淮巡検使として淮賊をしばしば挫いた。
- 史弘肇の苛烈な統治下、部下の讒言で「淮南から賄賂を受け内応を企てている」と讒訴され逮捕されかけたが、迎えの騎兵を前に「冤罪だ、罪あれば裁きを受ける、なぜ弁明の機会も与えず殺そうとするのか」と抗弁して命拾いし、後に家宅捜索でも罪証は見つからず、友人の弁護もあって讒言者が処刑され釈放されたという顛末が伝わる。
- 顕徳初め、劉崇の侵攻に際し世宗の親征に従い、高平の戦いで奮戦を志願、降兵数千を効順指揮に編成され統率を任された。顕徳三年春、世宗の淮甸親征でも戦功を重ね、饒州刺史、濠州行刺史として濠州包囲を指揮したが、顕徳四年冬、力戦の傷がもとで数日後に卒す。世宗は深く憐れみ、武清軍節度使を追贈した。
史論
- 史臣は評す。古来、臣たる者は名望が重ければ必ず危うく、功が高ければ保ちがたい。賢者でなければこれを免れられるだろうか。まして王殷は明哲の分別を欠き、周太祖は猜疑深い君主であったから、禍を避けられるはずもなかった。何福進以下は皆将帥の英傑であり、旌旗を擁して藩鎮となったのも当然であろう。ただ史彦超は寇を防いで戦死したのは、忠と呼ぶにふさわしいのではないか。