舊五代史卷一百十七 周書第八 世宗紀四
世宗紀四は顕徳四年(957年)、南唐親征の続編。紫金山下の淮南軍の砦を連破して寿州の劉仁贍を降し、年末には濠州・泗州を相次いで攻略、清口の戦いで淮南軍を大破し江北都応援使陳承昭を捕えるなど、江北平定を大きく前進させた。
年表(6件)
- 顯德四年三月957年紫金山下の淮南軍の砦を連破し、朱元らが投降する
- 顯德四年三月957年寿州の劉仁贍が降を乞い投降する
- 顯德四年四月957年内供奉官孫延希が役夫の粗食を見た帝の怒りにより斬られる
- 顯德四年十一月957年十八里灘の砦を攻略し濠州を攻める
- 顯德四年十二月957年泗州守将范再遇が投降する
- 顯德四年十二月957年清口で淮南軍を大破し、陳承昭を捕える
顯德四年(957年)
- 春正月己丑朔、帝は崇元殿で朝賀を受ける。大辟を除き罪人を釈放。兵部尚書張昭が太祖実録・梁唐二末主実録の編修について上言し、隠帝実録を先に修めること、唐の閔帝(在位四月で出奔)を前廃帝、清泰帝を後廃帝として書することなどを提案し、許された。
- 李重進が寿州の北で淮賊五千を破る。李景の弟斉王李達の軍のうち許文縝・辺鎬・朱元らが淮を遡り紫金山に十余砦を築き城内と呼応、糧道を築いたが、李重進に敗れる。帝は来月の淮南行幸を詔す。李穀が親征の利を三点説き、世宗はこれを喜び採用したという。
- 二月、向訓が黄蓍砦で淮賊二千を破る。王朴を権東京留守兼判開封府とする。車駕が京師を発し下蔡に至る。三月、帝は紫金山下に軍を進め、今上に諸砦を攻めさせて連破。夜、賊将朱元・朱仁裕・孫璘が砦を挙げて投降、その衆一万余人を得る。翌日諸砦を陥落させ、建州節度使許文縝・前湖南節度使辺鎬を捕える。
- 帝自ら淮北岸を追撃し鎮淮軍まで二百余里、数千を殺獲し戦艦・糧船数百艘・銭帛器仗を鹵獲。鎮淮軍を築き浮橋を架す。廬州都部署劉重進が壽州東山口で紫金山の潰兵三千を殺す。向訓を徐州節度使兼淮南道行営都監とする。
- 寿州の劉仁贍が降を乞う表を上げ、帝は使者を送って慰撫。劉仁贍・将佐・兵士一万余人が投降。寿州を下蔡に移し旧寿州を寿春県とする。管内の赦免と租税免除、擄われた者の返還、戦場の遺骨収拾を命ずる詔を発す。劉仁贍を検校太尉兼中書令に任じたその日に卒す。
- 韓倫(韓令坤の父)は陳州で郡政に干与し苛斂により民に訴えられ、審理の結果官爵を奪われ沙門島に配流されたが、令坤の哀願で死は免れたと伝わる。左諫議大夫尹日就を寿州へ遣わし倉を開いて賑済させる。車駕は下蔡から京へ還る。
- 夏四月、李穀は風痺を患い辞意を三度上表するも許されず、世宗は「一人の子に病あるからと棄てるのは父の道ではない」と諭したという。内供奉官孫延希が瓦中で飯を食う役夫を見た帝の怒りで斬られ、御厨使董延勛ら三名も停職。故彭城郡夫人劉氏を皇后に追册。多数の故皇子・皇弟・皇妹・皇従弟らへの追贈・追封を行う。降伏した江南兵士を三十指揮に編成し懐徳軍と号す。
- 五月、崇元殿で朝を受け、修福殿を広政殿と改める。端午に文武百僚へ衣服を賜う。李重進を検校太傅兼侍中に、向訓を検校太尉同平章事に進める。密州防禦副使侯希進が夏苗の検分を拒み斬られる。張永徳を潭州節度使、今上を滑州節度使とする。
- 韓令坤を陳州節度使、袁彦を曹州節度使とする。宰臣范質・李穀・王溥に爵邑を加え、枢密使魏仁浦を開国公に進める。呉延祚を宣徽南院使兼権西京留守とする。格律を詳定する官を差す詔。六月、濠州刺史齊藏珍が罪により棄市。鍾謨を衛尉少卿に復す(孫晟誅殺後に流された鍾謨への処遇の緩和)。西京伊陽の砂金採取を禁じない旨の詔。
- 秋七月、武行徳(定遠県屯兵の敗を咎められ)左衛上将軍に、李継勲(寿春南砦の敗の咎で)右衛大将軍にそれぞれ落とされる。王易・葢万が致仕。司農卿王敏が卒す。訴訟受理期間に関する詔(農繁期の停止措置)。八月、兵部尚書張昭が唐朝の制挙を範とする建言をし、帝はこれを善しとして条件の具申を命ずる。
- 田敏を工部尚書、司徒詡を太常卿とする。武班に武勇者の推挙を命ずる詔。許文縝・辺鎬ら呉蜀出身の帰順者に冬服・絹綿を賜う。李穀が病により宰相を辞し司空となる。王朴を枢密使とする。蜀主孟昶が旧誼を述べる書を寄せたが、帝はその抗礼を怒り返書せず。
- 九月、王溥・王朴が母の喪に服すも旧位のまま起復。李重進を鄆州節度使、竇儀を端明殿学士とする。冬十月、新修四寺に額を賜う。左蔵庫使符令光が、軍袍調達の遅れを帝に怒られ、宰臣らの救解も及ばず処刑される。制科(賢良方正・経学優深・詳閑吏理の三科)を懸ける詔。麟州刺史楊重訓が投降。
- 淮南への再行幸の詔。王朴を権東京留守とする。車駕が京師を発し濠州城下に至る。十八里灘の砦を攻略、渡河した甲士と今上の騎軍でこれを破る。濠州の水砦・関城を破り戦艦七十余艘を焼き斬首二千級。羊馬城を攻める。濠州団練使郭廷謂が事情を陳べる表を上げ、江南への連絡を許される。
- 帝は濠州から水陸並進、渦口で淮賊を大破し斬首五千級、降卒二千余人、戦船三百艘を得て東進を続ける。今上が泗州の郭門を焼き月城を奪う。帝自ら矢石を冒して攻める。十二月、泗州守将范再遇が投降し宿州団練使を授かる。帝は泗州から東下し、今上は南岸を進み、清口で淮賊を追撃、楚州西北で水陸ともに大破。
- 今上が江北都応援使陳承昭を捕え献上、船三百余艘・将士七千余人を鹵獲。周は江淮の水戦不備を京師での大船建造と降兵の指導で克服し、江南を大いに震撼させたという。濠州団練使郭廷謂・漣水の崔万廸らが相次いで投降し、郭廷謂を亳州防禦使とする。
- 江南は揚州の士庶を強制的に江南へ移し、州城を焼いて去った。故同州節度使白延遇に太尉、故濠州刺史唐景思に武清軍節度使を追贈。泰州が平らぐ。