舊五代史卷一百十六 周書第七 世宗紀三
世宗紀三は顕徳三年(956年)、南唐(淮南)への親征の記録。世宗自ら寿州城下に軍を進める一方、李重進が正陽で淮南の大将劉彦貞を討ち取り、趙匡胤(今上)が清流山で淮賊を破って滁州を攻略、韓令坤が揚州を奪取するなど各方面で戦果を挙げた。皇后符氏はこの年に薨じた。
年表(7件)
- 顯德三年正月956年淮南への親征のため行幸すると詔する
- 顯德三年956年李重進が正陽で淮南の大将劉彦貞を大破し討ち取る
- 顯德三年956年趙匡胤(今上)が清流山で淮賊を破り滁州を攻略、皇甫暉・姚鳳を捕える
- 顯德三年956年韓令坤が揚州を奪取する
- 顯德三年四月956年趙匡胤が六合で江南軍を大破する
- 顯德三年七月956年皇后符氏が薨ずる
- 顯德三年八月956年端明殿学士王朴が新暦「顕徳欽天暦」を撰進する
顯德三年(956年)
- 春正月乙未朔、帝は朝賀を受けず。前司空蘇禹珪が没す。李穀が淮賊を上窰で破ったと奏す。京師の羅城を築くため丁夫十万を発する。詔して今月八日に淮南へ行幸すると告げる。殿中監馬従贇は外孫女の霍氏の財産に絡む乾没の罪で免官される。
- 向訓を宣徽南院使兼権東京留守に、王朴を副留守とする。車駕が京師を発す。李穀は寿州を攻めていたが、淮南の援軍が大挙するとの報せに、正陽への退守を諸将と合議し、糧草を焼いて退いた。この撤退で兵糧・器物に損失が出た。
- 帝は淮賊が李穀の退軍に乗じて橋を断とうとしていると聞き、李重進に急ぎ救援を命じた。李重進は正陽で淮賊将劉彦貞の大軍と交戦し、これを大破。斬首二万余級、伏屍三十里に及び、劉彦貞を陣中で討ち取り、副将咸師朗以下を生け捕り、鎧甲三十万・軍馬五百匹を得た。
- 帝は正陽から寿州城下へ進み、淝水の北に営した。正陽の浮橋を下蔡に移すよう詔す。城下で兵を耀す夜、淝水から白虹が立ち城中を貫くという奇瑞があったと伝わる。
- 今上(趙匡胤)が渦口で淮賊数千を破り、戦船五十艘を得る。前済州馬軍都指揮使康儼が橋道の管理不行届で斬られる。朗州節度使王進逵が淮南に入り、廬州巡検使司超が盛唐で淮賊三千を破り、偽吉州刺史高弼を捕えて釈放。兵部尚書張昭が撰した『制旨兵法』十巻四十二門が奏上され、褒賞される。
- 今上が清流山で淮賊一万五千を破り、勝ちに乗じて滁州を攻略。江南の将、皇甫暉・姚鳳を捕える。この戦では、鎮州の学究趙学究の指図で山背の間道を進み夜討ちをかけたことが勝因になったと伝わる。
- 江南国主李景が使者を送り、周を兄事する趣旨の書を寄せたが、周は返書せず。今上は捕えた皇甫暉・姚鳳を行在に送り、後に釈放。李景は改めて宰臣鍾謨・李徳明らを送り、称臣・納貢を申し出て、金器・錦綺・牛酒などを進上。周も謨らに錦綺・銀器等を賜う。
- 韓令坤が揚州を奪取。将吏が門を開いて迎え入れ、市も混乱せずに済んだと伝わる。壽州城内から徐象ら十八人が投降。王進逵が鄂州境の長山砦で淮賊三千余を破ったが、後に部将潘叔嗣に殺害される事件が起きた(潭州へ赴く途中で謀反に遭い、追いつめられて殺されたという顛末が伝わる)。周行逢が朗州に代わって帥となる。
- 舒州刺史郭令図が舒州を攻略。郡人に一度追われたが、王審琦の助けで再び入城したという経緯が伝わる。江南は捕虜となっていた蜀軍降卒百五十人を送還したが、帝はその逃亡歴を怒り皆殺しにした。李景は使者孫晟・王崇質を送り、金銀・羅綺・茶絹等を進上。
- 帝は李景に長文の国書を送り、江北平定の経緯と、淮南を尽く周に帰せしめるべき理由、江南吏卒を放還し江北軍民を留住させる方針、称臣・去尊号の可否などを説く。将佐にも別書を送り、和議の条件(淮以南を界とする案は取らず、江北諸郡は周のものとする意向)を示した。
- 李景は鍾謨・李徳明を遣わし、寿・濠・泗・楚・光・海の六州の割譲を申し出たが、帝は江北全郡の帰属を求めて拒否。李徳明は自ら江南へ赴き表を取り付けると申し出て許され、書を携えて李景に届けた。
- 夏四月、武行徳を濠州城下行営都部署、候章を寿州城下水砦都部署とする。車駕は寿春から淮に沿って東進。両浙の銭俶が常州を攻めたが江南の陸孟俊に敗れる。帝は濠州城下に駐蹕。韓令坤が江南軍を破り陸孟俊を捕える。今上も六合で江南軍を大破し斬首五千級。
- 李景の弟斉王李達が瓜歩から渡江して六合に迫ったが、今上が撃退し、江に溺死する者数えきれず。向訓を権淮南節度使兼沿江招討使、韓令坤を副招討使とする(韓令坤が揚州放棄を図った際、向拱=向訓が急遽赴任して軍紀を立て直したという経緯が伝わる)。
- 車駕は渦口から京へ還る。宰相范質の諫言により再度の揚州行幸を取り止めたと伝わる。馬希崇を左羽林統軍とする。都下の赦免を行う。陳州節度使王令温が卒す。
- 六月、王景を秦州節度使、向訓を淮南節度使、韓通を許州節度使、王全斌を隴州防禦使とするなど多数の人事を行う。御史中丞楊昭儉ら三名は獄事の失実により停任。陶穀・扈載・王著らを翰林学士等に任じる。薛居正を左諫議大夫・昭文館学士判館事とする。
- 淮南道の罪人を六月十一日以前の分について不問とする赦を発す。李重進が寿州の南砦を攻めるが、賊軍に破られ将士数百人が死す。糧運が続かず軍は動揺したが、今上が六合から帰陣する途上に立ち寄り旬日留まったことで士気が持ち直した。
- 秋七月、周行逢を朗州大都督・武平軍節度使とする。廬州都部署劉重進が淮賊千余人を破る。濠州行営都部署武行徳が淮賊二千人を破る。太子太保王仁裕が卒す。皇后符氏が薨ず。向訓は攻城が長引くのを見て揚州を放棄し兵力を寿春に集中、その撤収は乱れず淮人に慕われたと伝わる。
- 八月、白重贊・張澤らが移鎮。端明殿学士王朴が新暦「顕徳欽天暦」を撰進し、上が自ら序を作り司天監に行用させる。張永徳が下蔡で淮賊を破る(江南将林仁肇・郭廷謂が浮橋を焼こうとしたが、風向きが変わり逆に敗れたという)。
- 九月、王朴を尚書戸部侍郎・枢密副使とする。冬十月、宣懿皇后を懿陵に葬る。舒州刺史郭令図が郡を棄てて逃げ帰り、虢州教練使に落とされる。諸司の職員採用制度を整える詔を発す。
- 李重進が盛唐で淮賊二千級を破る。太子賓客薛仁謙が卒す。襄州節度使安審琦を守太師に進める。右拾遺趙守微が、身持ちの悪さを妻の父に訴えられ杖罪配流となる(布衣より抜擢された経緯とその失脚が伝わる)。今上が同州節度使兼殿前都指揮使に任じられる。
- 十一月、天下の無名の祠廟を廃す詔。江西進奉使孫晟が獄死し、江南進奉使鍾謨は耀州司馬に落とされる。華山の隠者陳搏を召したが月余りで山へ帰す。張永徳が下蔡で濠州の送糧軍二千人を破る。宰臣李穀が風痺のため辞意を十度上表するも許されず。
- 十二月、張昭に太祖実録・梁末帝・唐清泰帝の両朝実録の纂修を命ずる。史館の書籍不足を補うため天下に収集を命じ、進書者には恩賞を与える旨も詔す。李重進が塌山北で淮賊二千人を破って年を終える。