舊五代史卷一百十八 周書第九 世宗紀五

世宗紀五は顕徳五年(958年)、南唐親征の終結期。楚州を攻め落として守将張彦卿を斬り、江南の李景は廬・舒・蘄・黄の四州を献じて江を境とすることを請い、淮南平定が成った。周は州十四・県六十・戸二十二万余を得た。

年表(6件)

顯德五年(958年)

  • 春正月癸未朔、帝は楚州城下におり、従臣が行宮で朝賀した。楚州攻めの際、城壁上で罵る城卒を弓の名手馬仁瑀が一矢で射殺したという逸話が伝わる。同州を降して郡とする。右驍衛将軍王環が卒す。右龍武将軍王漢璋が海州攻めを奏す。
  • 諸道幕職州県官の考課年限を三周年とする詔。韓令坤に権知楊州軍府事を命ずる。楚州管内の丁壮を発して鸛河を開き運路を通す。帝自ら楚州を攻め、今上は城北で昼夜甲を解かず矢石を冒して城壁を登った。城を抜き、偽守将張彦卿ら六軍を斬り、城内を大いに掠奪、軍民の死者は一万余人、廬舎はほぼ焼き尽くされた。張彦卿が抗戦の末に一族もろとも壮絶に戦死した顛末が南唐側の記録に詳しい。
  • 二月、天長軍使易贇が投降。車駕は楚州を発し南巡、広陵に駐蹕。揚州部内の丁夫万余人を発して揚州城を築く。焼失した旧城の東南に新塁を築いた。故淮南節度使楊行密・故昇府節度使徐温らの墓を祭る。揚子渡で大江を観る。黄州刺史司超が淮賊三千を破り偽舒州刺史施仁望を捕える。
  • 隰州は北漢劉鈞の囲みを受けたが、巡検使李謙溥が州兵で防ぎ、これを退けた。奇襲策で寡兵ながら守り抜いた経緯が伝わる。三月、泰州・広陵・迎鑾江口を巡幸。李継勲に舟師を率いさせ、今上が江上の淮賊船を焼き討ちする。殿前都虞候慕容延釗が東㳍州で賊軍を大破。
  • 江南李景が兵部侍郎陳覚を遣わし表と羅縠・乳茶・香薬等を貢ぐ。陳覚は行在で周の楼船戦棹を見て驚愕したという。荊南高保融・両浙銭俶がそれぞれ水軍を派し合流。今上が瓜歩で賊船百余隻を破る。李景は劉承遇を遣わし廬・舒・蘄・黄の四州を献じ、江を界とすることを請う。
  • 帝はこれに応じ長文の返書を送り、常潤一路・沿江の兵を撤収し両浙・荊南・湖南の水陸兵も罷めさせる旨を伝えた。かくして淮南は平らぎ、州十四・県六十・戸二十二万六千五百七十四を得た。李景は世子への譲位を図り従属を申し出ていたが、帝は自制を促す書を送り返した。
  • 及第進士の再考査を命ずる詔(劉坦ら五名を及第とし、王汾以下は放黜、知貢挙劉濤は選士不当により降格)。翰林学士李昉が覆試を行った。復び揚州に幸す。廬州軍額を保信軍と改める。趙贊を廬州節度使、慕容延釗を淮南節度使兼殿前副指揮使とする。李景へ御馬・金銀等を賜う書を送る。
  • 江南は宰相馮延已を送り銀十万両・絹十万匹・銭十万貫・茶五十万斤・米麦二十万石を献ずる。楊行密・徐温の墓に守冢戸を給する詔。江北にある江南臣僚の先祖の墓も検校を命ずる。臨汝郡公徐遼が買宴銭二百万と伶官五十人を送り献寿。
  • 夏四月、行宮で従臣・江南進奉使馮延已らに宴し、徐遼が代わって寿觴を捧げる。車駕は揚州を発し京へ還る。宿州で正賦を偽った獄事が竇儀により厳しく審理され、族死者二十四人に及んだ。李彦頵を滄州留後とする。新太廟が成り五廟の神主を遷す。契丹の犯境により張永徳を北辺に派遣。
  • 杭州が火災に遭い府署が焼失。五月、崇元殿で朝を受ける。行営将士への論功行賞、戦没者への贈官・子孫の登用、傷夷残廃者への救接を命ずる。淮南諸州・徐宿宋亳陳頴許蔡等州の未納租税を免除。竇儀を判河南府・知西京留守事とする。安審琦を青州、韓通を宋州、向訓を襄州、今上を忠武軍節度使とする(今上の淮南の功が最大であったが、栄転にとどまり賞が軽すぎるとの議論があったという)。
  • 武行徳を鄜州、宋延渥を滑州節度使とする。東京羅城の諸門に名額を立てる(寅賓・延春・朱明・景風・畏景・迎秋・肅政・玄徳・長景・愛景)。文資官の再挙推薦を命ずる詔。向訓に西南面水陸発運招討使を兼ねさせる。馮延魯を江南国信使、鍾謨を副使とし、李景へ御衣・玉帯・錦綺羅穀・金銀器・御馬等と塩三十万石を賜う書を送る。
  • 六月、竇儼に雅楽を参定させる。先に捕虜となった江南兵士四千七百人を放還。帝は御膳の常膳を半減させる。太廟で禘祭を行う。張昭らが撰した太祖実録三十巻が完成し進上される。張正を工部侍郎兼江北諸州水陸転運使とする。
  • 秋七月、高防を戸部侍郎、李洪信を右龍武統軍等とし、田敏以下多数が致仕。『大周刑統』が刊定され天下に頒布される。諸道節度使・刺史に均田図を賜う(唐の元稹が同州で上奏した均田表を模範に作らせたもの)。閏月、衍州を廃して定平県、武州を廃して潘原県とする。河陰県で河水が決壊し四十二人が溺死。青州節度使安審琦の邸に幸す。邢州留後陳思譲が河東賊軍千余を破る。
  • 八月、延州で溱渓の水が溢れ州城を壊し百余人が溺死。太子太師致仕宋彦筠が卒す。江南李景が投降を乞う表を上げるが許されず。九月、馮延魯・鍾謨を江南へ帰す。李景は再び世子李弘冀への伝位を奏し、帝も書で応じた。江南・両浙へ羊馬駱駝を賜う。宰臣・枢密使らに玉津園で宴す。占城国王が方物を貢ぐ。
  • 天清節、群臣が広徳殿に朝賀し、江南進奉使啇(湯)崇義が寿觴を捧げる。冬十月、高防を西南面水陸転運使として蜀征討への備えとする。邠州李暉が鳳翔に移鎮。迎春苑に幸す。司徒詡が致仕。帝は近郊で狩をする。前相州節度使王饒が卒す。許文縝・辺鎬・周延構が江南へ帰される。
  • 淮南諸州の郷軍を放って農に帰す。左散騎常侍艾頴らを遣わし河南六十州の税賦を均定させる。十一月、竇儼に『大周通礼』『大周正楽』の撰集を命ずる。日南至、崇元殿で朝賀。昭義李筠が遼州長清砦を破り偽命磁州刺史李再興を捕える。近郊で狩。十二月、朗州醴陵県の三仙観山中の旧田二万頃が暴雷で開通したとの奏。
  • 楚州兵馬都監武懐恩が投降兵四人を擅殺した罪で棄市。諸道州府の幕職令録佐官の料銭を重定し州県官俸戸を停める詔。楚州防禦使張順が隠匿した榷税銭・官糸綿の罪で賜死。両京・五府少尹司参軍等の員数を省く詔。近郊で狩。劉重進・宋延渥がそれぞれ移鎮。翰林学士の当直制度を定める詔。
  • この月、江南李景が太傅宋斉丘・兵部侍郎陳覚・鎮南軍節度副使李徴古を誅殺した。帝の南征に際し陳覚・李徴古は宋斉丘に国事を委ねるよう李景に勧めて疎まれ、後に李徳明が江北割譲・和議を説いたことを「売国」として讒言し李徳明を殺させたが、鍾謨が江南帰還後にこの経緯を暴露し、宋斉丘は九華山へ放たれ、陳覚らは貶官の後まもなく殺されたという。