舊五代史卷一百四 漢書第六 后妃列傳一 高祖皇后李氏

高祖皇后李氏は晋陽の人。髙祖(劉知遠)が微賤であった頃に劫かして娶った妻で、太原挙兵に際しては内府を傾けて軍資を助け、民への増税をやめさせた。天福十二年に皇后、隠帝の即位後は皇太后となり、郭威の周建国後は徳聖皇太后と尊号された。顕徳元年に薨じた。

年表(4件)

出自と生い立ち

  • 高祖皇后李氏は晋陽の人である。高祖が微賤であった頃、かつて晋陽の別荘で馬を牧していたが、夜にその家に入り李氏を劫かして娶った。高祖が藩鎮を領するに及び、累ねて魏国夫人に封じられた。

太原挙兵と内府の散財

  • 高祖が太原で義を建てた際、軍士に頒賚を行おうとしたが公帑が不足していたため、井邑に率をかけてこれを助成する議が出た。后はこれを聞いて諫め、「晋の高祖が義を建て国家が興運するに至ったのは、天意によるとはいえ、また土地・人民の福力が共に招いたものである。まだ民に恩恵を施していないのにその財を奪おうとするのは、新天子が民を憐れみ隠恤する道理ではない。今、後宮に積むところをことごとく散ずるべきである、たとえ十分でなくても人に怨言はないだろう」と述べた。高祖は容を改め「謹んで命を聞こう」と述べ、ついに歛貸の命を停めた。后は内府を傾けてこれを助けたため、中外でこれを聞いた者は感悦しない者がなかった。

皇太后として

  • 天福十二年、册立されて皇后となった。隠帝が即位すると尊ばれて皇太后となった(案ずるに、以下には欠文がある疑いがある。『通鑑』によれば、隠帝が李業らと楊邠らを誅することを謀り、議が定まって太后に入り白すと、太后は「この事はどうして軽々しく発してよいものか、なお宰相と議すべきである」と言った。李業はそのとき傍らにいて「先帝はかつて朝廷の大事は書生に謀るべきではない、懦怯は人を誤る、と言われました」と言った。太后が重ねて言うと、帝は忿って「国家の事は閨門の知るところではない」と衣を払って出た。また、南北の軍が劉子陂で遇い、帝が自ら出て軍を労おうとした際、太后は「郭威は我が家の故旧であり、死亡が身に切迫していない限りどうしてここまでするだろうか、ただ兵を按じ城を守り、詔を飛ばして諭すべきである、その志趣を観てから必ず言うべき理があり、そうすれば君臣の礼はなお全うされる、慎んで軽々しく出てはならない」と言ったが、帝は従わなかったという)。周太祖が京師に入ると、およそ国軍の大事はみな后に教令を発するよう請いこれを行った。この歳、徐州節度使贇を立てて帝とすることが議されたが、迎奉がいまだ至らないうちに、周太祖はついに羣臣を率い章を拝し后に権りに臨朝聴政するよう請い、后はそこで誥を称した。周太祖が六軍に推戴されるに及び上章してその事を具に述べ、あわせて后に事えて慈母とすることを願うと述べた。后は誥を下して答え、「侍中の功烈は崇高で徳声は昭著、禍乱を翦除し乾坤を安定させ、謳歌は帰するところがあり暦数は帰属するところがある、ゆえに軍民が推戴し億兆が同じく歓ぶ。老身は余生いくばくもないが、この多難の時にあたり衰朽の身を始終に託すのみである。来牋を戴省すると母として見るがごとく待たれ、深意を感念し涕泗が横流する」と述べ、あわせて戎衣と玉帯を出して周太祖に賜った。周太祖が即位すると尊号を徳聖皇太后と上り、太平宮に居した。周の顕徳元年春に薨じた(案ずるに、隠帝はまだ皇后を立てていなかった。本書の張彦成伝によれば、隠帝は彦成の女を娶ったとあり、楊邠伝によれば、隠帝が寵愛する耿夫人を立てて后にしようとしたが、邠がまだ早すぎると考えているうちに夫人は卒し、隠帝が后の礼で葬ろうとしたのを邠がまた止めたとある。思うに隠帝は在位三年で崩じ、時に年二十であったため皇后の册立には及ばなかったのである。また『五代会要』には、漢高祖の長女永寧公主が宋延渥に降嫁し、天福十二年四月に封ぜられ、乾祐二年十二月に秦国長公主に追封されたとある)。