舊五代史卷九十六 晉書第二十二 列傳十一 孔崇弼・陳保極・王瑜・張繼祚・鄭阮・胡饒・劉遂清・房暠・孟承誨・劉繼勳・鄭受益・程遜・李郁・馬重績・陳玄
孔崇弼――才乏しく命運を海に失う
- 孔崇弼、唐僖宗の宰相孔緯の子。後唐に仕え吏部郎中から給事中に進んだ。族兄昭序が給事中から左常侍に転じ、兄弟が同じ役所に並んだことが評判を呼んだ。
- 天福中、左散騎常侍に進んだが、これといった才はなく、談笑や戯れで人を喜ばせることに長けていた。天福五年、杭州・越州への使者を命じられた際、「孔常侍は命薄く、財を得れば命を失い、命があれば財を失う」と評された逸話が伝わる。翌年、使いの船が海で難破し、空手で帰ったという。
陳保極――才を誇り讒言に倒れる
- 陳保極、閩中の人。学を好み文に長じ、後唐天成中に進士に及第、秦王從榮の従事となった。從榮は急暴な性格で、保極が無断で外出したことを咎め鞭打ったが、從榮の敗死後は無実とされ礼部・倉部員外郎を歴任。
- 桑維翰の及第を「半人」と揶揄した逸話があり、天福中、維翰が宰相になった後、南方へ逃れようとする素振りを維翰に讒言され、詔で追及されたが同僚李崧の弁護で衛尉寺丞に降格されるに留まった。後に倉部員外郎に復したが、憤りを抱いたまま卒した。
- 才は乏しく傲慢な評判を持つ一方で吝嗇で、賭碁に負けると盤を乱して支払いを拒む逸話が伝わる。卒した際、妻子はなく、袋の中に白銀十錠のみが残されていたという。
王瑜――功名を求めて非業に倒れる
- 王瑜、范陽の人。父欽祚は殿中監から義州刺史。兇狡だが弁才があり騎射・文才にも優れた。天福中、左賛善大夫として濮州の租税調査に赴いた際、地方官吏に賄賂を要求し、それを自ら上奏して官吏を弾劾させ、太府少卿に抜擢された逸話が伝わる。
- 杜重威の縁故で恒州節度副使の座を父から奪い、丙午年、父欽祚が義州刺史の任にあった際、契丹の中原制圧と何建の蜀への帰順を見て父に「西へ逃げねば契丹に仕えることになる」と迫り、剣で脅して従わせた。賊酋趙徽と結んで西行を図ったが、途上で欽祚は殺され、瑜自身も僧に扮して逃れたが捕らえられ、岐州で侯益に殺された。享年三十九。
- 瑜の叔母が予知能力を持ち、契丹入中原の一月前に瑜に危険を告げたが、瑜は結局逃れられず死んだという逸話が伝わる。
張繼祚――旧臣の子として非業に倒れる
- 張繼祚、齊王張全義の子。河南府衙内指揮使を経て金吾将軍、蔡州刺史などを歴任。清泰末に母の喪に服していたところ、天福初、張従賔の乱に脅されて河陽留守を代行し、乱の平定後、二子とともに市で誅殺された。范延光との旧交から馬を贈っていたことが疑われた経緯もあった。宰相桑維翰が父の旧功を理由に赦免を求めたが許されず、李濤の上言により一族の連座は免れた。
鄭阮――貪濁ゆえに一族が滅ぶ
- 鄭阮、洺州の人。莊宗の招きで軍職に就き、明宗の中門使安重誨に愛され、明宗即位後は鳳翔節度副使、末帝即位後は趙州刺史に至った。貪濁な性格で民の細事まで探り賄賂を取り、罪を捏造して官を奪う不正を行った。
- 曹州刺史に転じた後も悪政を続け、髙祖入洛の際に朝見したが、まもなく本州指揮使石重立に殺され、一族は残らず滅んだ。
胡饒――凶戾により誅殺される
- 胡饒、大梁の人。馬歩都虞候などを経て明宗の部将王建立に信頼され真定少尹となったが、士君子の風がなく、平棘令張鵬の策を建立に薦めて郷直の制を敷かせ、訴訟が乱発し四郡が乱れた。
- 王都の乱の際、建立と王都の密約に関与し、梁時代の右庶子張澄を建立に取り入らせるなど陰謀に加担した。清泰初、馮道の同州副使として仕えたが、酒に酔って道を罵る無礼を働いた。天福二年、張従賔の乱に加担しようとしたが、王建立に捕らえられ斬られた。人々はこれを痛快とした。
劉遂清――孝行で知られた地方官
- 劉遂清、字は得一。青州北海の人。梁の開封尹劉鄩の甥。莊宗・明宗に仕え西都監守などを歴任し、王都の乱に際し易州刺史として防備に努めた。淄・興・登三州で善政を挙げ、髙祖即位後は鳳州防禦使、内客省使、宣徽北院使兼判三司などを歴任。
- 少帝嗣位後、鄭州、安州の防禦使を歴任し、病を得て帰郷の途上、上蔡の宿舎で卒した。至孝で知られ、母を北海から任地に迎えた際に自ら道端で出迎えた逸話が伝わる。三司判事の際、恩賞の乱発を諫める見識も示した。
房暠――事なかれ主義の樞密使
- 房暠、京兆長安の人。唐の宰相崔魏公の家臣を経て、末帝の河中在鎮時に見出され重用された。末帝即位後、南北院宣徽使、樞密使を歴任したが、薛文遇・劉延朗ら側近の専横の中で意見が通らず、朝議の場でうたた寝するほど無為であった。髙祖即位後、事なかれの姿勢が咎められず左驍衛大将軍として西京に留められ、開運元年春、洛陽で卒した。
孟承誨――背信の末に誅殺される
- 孟承誨、大名の人。髙祖に見出され客将から宣徽使に至った。少帝即位後は佞巧を働き権臣・宦官と結んで恩沢を私したため邸宅は華美を極めた。契丹入汴の際、少帝の召しに応じず身を隠し、後にその背信を張彦沢に密告されて殺害され、妻子は部族に配された。漢髙祖即位後、太保を贈られた。
劉繼勳――契丹に責められた辺境の将
- 劉繼勳、衛州の人。唐天成中、髙祖の鄴都在鎮時に客将として仕え、以後髙祖に従い多くの鎮を歴任、閤門使、淄州刺史、澶州防禦使、鄭州、宣徽北院使を経て華州刺史、同州節度使に至った。
- 少帝と契丹の断交に関与し、契丹入洛後に朝見した際、契丹主に責められ、傍らにいた馮道を「首相として景延廣とともに謀議したのはこの者だ」と指して難を逃れようとしたが、契丹主に「お前らが牽制し合っているだけだ」と一蹴された。疾患を口実に契丹に脅されたが、趙在礼の死により釈放され、憂憤のうちに家で卒した。漢髙祖入汴後、太尉を贈られた。
鄭受益――名門の子として自壊する
- 鄭受益、唐宰相鄭餘慶の曽孫。家系は代々清儉で知られる名門であったが、天福七年夏、張彦沢の悪事を弾劾する上章を繰り返して執政に憎まれ、病を口実に長安に帰った。髙祖崩御の際に赴かなかったことで停職となったが、赦免後は京兆少尹となり、宰相趙瑩の同州赴任に随行し戸籍調査を担当した際、門地を恃んで賄賂を貪り、発覚して天福八年冬、家で賜死された。名門の出でありながら自ら身を滅ぼしたことを士君子は惜しんだ。
程遜――使命に殉じた文人
- 程遜、字は浮休。夀春の人。翰林学士から兵部侍郎承旨を経て太常卿。天福三年秋、呉越への使者を命じられた際、老いて目の見えぬ母を残す辛さを詩に詠んだ。使いから帰る途上、船が難破し水死した。
李郁――夢に死を予知した宗室
- 李郁、字は文緯。唐の宗族。宗正寺の官を歴任し、性格は公平で毀誉褒貶がなかった。髙祖登極後、光禄卿となったが、大きな棗を食べる夢を見て「棗は重来(再びの意)を象徴し、魂を呼ぶ兆しだ」と語り、天福五年夏に卒した。太子太保を贈られた。
馬重績――暦法を改めた学者
- 馬重績、字は洞微。若くして数術を学び、太原に居住し晋に仕えて司天監となった。天福三年、旧来の暦法の誤差を指摘し、唐天宝十四年を上元とする新暦「調元暦」を上奏、翌年正月朔で検証されて頒行されたが、数年で誤差が生じ廃止された。
- 漏刻の法についても古法との違いを正すよう提言し、これも採用された。享年六十四で卒した。
陳玄――名医として重んじられた侍医
- 陳玄、京兆の人。代々医を業とし、河中の王重榮に仕え、後に武皇に従い蒲州を経て太原に至った。武皇の剛暴な気性を宥める諫言を行い、晋の人々に徳とされた。明宗朝で太原少尹、太府卿を歴任し、長興中に自ら験じた薬方七十五首と製薬法百件をまとめ「要術」と称して太原府衙門に石刻を置き広く役立てた。天福中、致仕して晋陽で卒した。享年八十余。
史論
史臣曰く、善を彰らかにし悪を懲らすことは麟史(春秋)の義である。瑕を隠さぬことは虹玉の徳である。故に孔崇弼以下、善なる者はこれを書し、不善なる者もまたこれを書し、後の君子をして善を見ては及ばぬかのように、悪を見ては熱湯に触れるかのように戒めさせるものである。馬重績の暦法、陳玄の医道もまた、その名を漏らさず記すべきものである。