舊五代史卷九十五 晉書第二十一 列傳十 皇甫遇・王清・梁漢璋・白奉進・盧順密・周瓌・沈贇・吳巒・翟璋・程福贇・郭璘

皇甫遇――節を全うして殉じた将

  • 皇甫遇、常山の人。父武は太原に流寓し遮虜軍使を務めた。若くして勇武で虬髯、騎射に優れた。明宗の麾下から龍武指揮使に累進し、東川討伐にも従軍したが、鄧州節度使などの任地では苛暴な誅斂で評判を落とした。
  • 安重栄との婚姻関係から上党・平陽に移され、政事は乱れた。少帝即位後、鄆州北津の戦いで契丹を大破し滑州節度使。開運三年、邯鄴で契丹前鋒と遭遇し、寡兵ながら辰から未まで激戦、乗馬を失いつつも従者杜知敏の馬を得て奮戦し、知敏が捕らえられると慕容彦超とともに救出した。安審琦の援軍により危機を脱した。
  • 検校太師・同中書門下平章事に至ったが、開運四年、杜重威が滹水で契丹に降伏する際にその議に与しなかった。契丹の戎王に先に汴へ入るよう求められると拒み、「旧主に見える顔がない」として趙郡に至った宿で食を絶ち自ら首をくくって死んだ。漢髙祖は中書令を追贈した。周広順三年、妻宋国夫人霍氏の願いにより尼として貞範大師の号を賜った。

王清――中渡橋で全滅までも戦った忠臣

  • 王清、洺州曲周の人。父度は農を業とした。明宗の歩直軍に応募し小校となり、同光初の河上の戦いで功を立て忠烈功臣を賜った。天福年間、范延光討伐、襄州安従進討伐に従い、先登して城を陥落させる功を立てた。
  • 開運二年、杜重威の陽城解囲戦に従い、瀛州奪還にも功があった。契丹の大軍が中渡橋を挟んで対峙した際、常山への道を断たれる危機に対し、「歩兵二千で橋を奪い道を開くので、公は後続してほしい」と重威に進言し、橋を奪って契丹を退けたが、重威が進軍を渋り既に内心朝廷を裏切っていたため、清は孤軍で日暮れまで奮戦を続け、ついに部下とともに戦死した。享年五十三。
  • 契丹は戦場に京観(戦死者を積んだ塚)を築いたが、漢髙祖即位後に平定させ、清に太傅を贈った。子守鈞が本邑で招魂して葬った。

梁漢璋――寡兵で契丹に敗死した将

  • 梁漢璋、字は国宝。應州の人。若くして勇武で明宗に仕え、髙祖即位後、欽州刺史、護聖都指揮使、閬州団練使などを歴任。永清軍節度留後を経て、開運中、北面馬軍都排陣使として淤口関の奪還に赴き、浮陽の北で契丹の五千騎と衝突、衆寡敵せず流矢に当たり戦死した。享年四十九。
  • 藩郡では聚斂に努め善政の評判はなかったが、契丹平定の志は篤かった。子海榮が漢璋の遺品を献上し、帝は太尉を贈った。弟漢瑭も槊の名手として知られ、王都討伐で先登の功を立てたが、後に趙郡で事に坐して殺され、人々に冤罪とされた。

白奉進――軍紀をめぐる争いから殺害された将

  • 白奉進、字は徳昇。雲州清塞軍の人。武皇の麾下に入り、莊宗の夾寨攻略で先登の功を立てた。魏王継岌の蜀征討、天成長興中の統率を経て、清泰中は唐州刺史として善政を挙げた。
  • 娘が皇子重信に嫁いだことから髙祖に重んじられ、天福中、侍衛馬軍都指揮使として范延光討伐に従軍、滑州で符彦饒との間に配下兵士の処罰をめぐる軋轢が生じ、彦饒に殺害された。髙祖はこれを深く悼み太傅を贈った。

盧順密――滑州の乱を鎮定した忠臣

  • 盧順密、汶陽の人。梁の戴思遠に仕え徳勝渡の守備に当たったが、莊宗の勢いを見て帰順し、鄆州奪取の献策を行った。明宗即位後、数郡の刺史を歴任し仁愛の誉れを得た。
  • 白奉進が符彦饒に殺害され軍中が混乱した際、順密は軍衆を説得して暴動を鎮め、彦饒を捕らえて京師に護送させた。この功により涇州留後に任じられたが、赴任後まもなく卒した。髙祖はこれを深く悼み驍衛上将軍を贈った。

周瓌――清廉を貫き非業に倒れる

  • 周瓌、晋陽の人。若くして篤厚で書計に長じ、髙祖の腹心として財務を長年委ねられた。髙祖即位後、三司権判を命じられたが才の不足を理由に辞退し、河陽三城の統括、安州節度使を歴任。
  • 部下の威和指揮使王暉に、范延光の乱に乗じて殺害され、暉は州事を専横したが、間もなく討伐され誅された。髙祖はこれを深く悼み太傅を贈った。

沈贇――契丹に降らず自刎した忠臣

  • 沈贇、字は安時。徐州下邳の人。梁太祖に仕え小校となり、莊宗の平梁後もその職を保ち、蜀征討にも従軍。天成初、検校司空虢州刺史から数州刺史を歴任し輸忠宣力功臣を賜った。
  • 開運元年、祁州刺史の任にあった際、契丹が牛羊を追い立てて城下を通過するのを撃とうとしたが、趙延寿の裏切りにより城が包囲された。趙延寿の降伏の誘いを「父子ともに誤って契丹に陥り、父母の邦を残害しながら恥じないのか」と一喝して拒み、城が陥落すると自ら首をはねて死んだ。家族は賊に捕らえられた。

吳巒――雲州・貝州で節を守った忠臣

  • 吳巒、字は宝川。汶陽盧県の人。学を好み、大同軍節度判官などを歴任。髙祖挙兵に伴い雲中の沙彦珣が契丹に擒われた際、巒は「礼義の人が異姓に臣従できようか」と将吏とともに城を固守し、契丹の半年に及ぶ攻撃を退け、髙祖の書状により囲みが解かれた。
  • 徐州節度使、右諫議大夫、復州防禦使を歴任後、貝州で軍校邵珂の背反により天福九年正月、契丹の大軍に城を包囲され、四日目に敵が四面から攻め、珂が南門から敵を引き入れると、巒は事態を知り公館に戻って井戸に身を投げて死んだ。契丹は城を屠り、朝野の人々はこれを惜しんだ。

翟璋――配置を離れられず不遇に終わる

  • 翟璋、経歴不詳。勇力があり「大蟲(虎)」と渾名された。天福初、鄴都馬歩軍都指揮使から平州刺史、復州防禦使、新州の節度を歴任。髙祖挙兵で新州が契丹領となると、契丹に配下の犒宴費用の徴収を課され民が苦しんだ。契丹主に懐柔されたが南帰を許されず、平叛や雲州包囲戦で功を立てるも留められ、鬱々として病没した。

程福贇――冤罪により殺された将

  • 程福贇、経歴不詳。沈厚で勇力があり軍校を務めた。天福七年冬、杜重威の鎮州討伐で功を立て洺州団練使。天福九年春、部下の反乱を鎮圧したが少帝への報告を怠り、同僚李殷の讒言により商州刺史に左遷され、獄に下されて弁明も叶わず殺された。人々に冤罪とされた。

郭璘――易州で契丹に屠られた将

  • 郭璘、邢州の人。明宗に仕え軍校となり、天福中に奉国指揮使、開運中に易州を領した。契丹の攻撃に対し士卒と苦楽を共にして防戦し、契丹主も「天下を畏れぬ我が、この者に阻まれる」と評した。杜重威の降伏後、契丹の通事耿崇美の誘降策により城が陥落し璘は殺害された。漢髙祖即位後、太傅を贈られた。

史論

史臣曰く、前代の人臣の事跡を見るに、世が泰平であれば寵を頼み禄を恃む者が多く、世運が屯するときは死を効し忠を尽くす者は少ない。皇甫遇が憤激して没し、王清が血戦して亡くなったことは、近世にあって稀な例である。ある者は難に臨んで身を捐て、ある者は方を守って害に遭った。これは妖艶に惑って命を喪い、醇醪に耽って身を亡ぼす者とは、はるかに隔たるものである。ただ盧順密が滑州の乱の萌芽を遏めて晋室の危機を救ったことも、また忠と言えよう。