舊五代史卷九十七 晉書第二十三 列傳十二 范延光・張從賔・張延播・楊光遠・盧文進・李金全
范延光――功臣より僭意を抱き非業に死す
- 范延光、字は子環。鄴郡臨漳の人。若くして州の牙官から明宗の親校となり、同光中、明宗の鄆州包囲戦で康延孝の内応を莊宗に伝える密使を務め、獄に下されても口を割らなかった忠節が評価され、明宗即位後は宣徽使に抜擢された。
- 朱守殷の乱平定で先陣を切り、樞密使、鎮州節度使、同平章事を歴任。安重誨事件後に再び樞密使、秦王從榮の禍を恐れ地方への転任を願い常山を鎮めた。清泰中、汴州節度使として魏府の乱を平定、鄴都留守・検校太師兼中書令に至った。
- 術士張生の「大蛇が腹に入る夢は帝主の兆し」との言葉を信じ、僭意を抱くようになった。髙祖挙兵後、趙延壽との連携が失敗すると不安を募らせ、秘瓊殺害や兵の蓄積で疑われた。牙校孫銳が軍政を専断し、天福二年夏、馮暉とともに反乱を起こしたが、女妓を連れた奢侈な軍勢は敗北し、延光は孫銳を殺して罪を転嫁した。
- 髙祖は鉄券を与え高平郡王・天平節度使として招降し、延光は「主上は信義を守る」と信じて降伏したが、致仕後、河陽の私邸で楊光遠に財産を狙われ、承勲に迫られて自裁を強要され、浮橋から水に落とされて殺された。髙祖はこれを深く悼み太師を贈った。
- 若い頃は礼賢接士で名声を得たが、鎮所では部将の略奪した財を横領し、秘瓊の財も奪うなど評判を落とし、最期に自ら決断できず強制死に至ったことは「非夫(男らしからず)」と評された。
張從賔――帝室を害した乱臣
- 張從賔、経歴不詳。莊宗の小校から軍功を重ね、明宗朝で夀州節度使などを歴任した。佞弁で明宗に讒言を用いられやすく、供奉官丁延徽の贓罪を弁護しようとした逸話がある。
- 靈武節度使、髙祖即位後の東京巡警使を経て、御史を水に突き落とすなど傲慢な振る舞いが目立った。范延光の乱に乗じ河陽で挙兵し、皇子重信・重乂を殺害、内庫の金帛を奪って氾水関に拠ったが、杜重威・侯益に討たれ、敗走中に河に落ちて溺死した。
張延播――従賔の乱に連座する
- 張延播、汶陽の人。明宗の郡城占領時に見出され、天成中に検校司空・両河発運営田使、蔡州刺史などを歴任し左領軍衛大将軍、客省使に至った。蜀征討の馬軍都監を務め、鳳州防禦使を経て髙祖即位後、東都副留守。張從賔の乱の際に河南府事を委ねられていたが、乱の平定とともに従賔は誅殺された。
楊光遠――功臣から反逆者へ
- 楊光遠、小字阿檀。もと沙陀部の出。武皇に隊長として仕えた父の跡を継ぎ、莊宗の騎将として周徳威に従い契丹戦で負傷し一時罷免されたが、莊宗即位後は幽州馬歩軍都指揮使として復帰。文字は読めなかったが弁舌に優れ、明宗朝で四州刺史を歴任し善政の評判を得た。
- 契丹捕虜の解放をめぐる明宗との議論で反対の直言を貫いた逸話が伝わる。髙祖挙兵の際、張敬達とともに晋陽を囲んだが契丹に敗れ、次将安審琦とともに敬達を殺して髙祖に帰順、宣武軍節度使・同平章事となった。
- 「張敬達(生鉄)の死に方には及ばない」と自らの決断を悔いる言葉を髙祖に述べ忠純の評を得たが、実際は寵愛を得るための計算であった。范延光討伐の功で兵権を握り朝政に干渉、子承祚を長安公主に尚させるなど寵遇を極めた。桑維翰の弾劾を憎み、延光降伏後に維翰を相州に追いやらせた。
- 契丹に阿り財を貢いで自らの立場を保とうとし、部曲千余人を私に養い法を犯した。范延光の財貨を狙って自裁を強要し水に沈めて殺し、朝廷には投身自殺と偽奏した。少帝即位後、太師・夀王に封じられたが、官馬の返還要求に激怒し、契丹と結んで反乱を企図した。
- 開運元年、契丹侵攻に乗じて挙兵の機を狙ったが、李守貞・符彦卿に囲まれ城内は飢餓に陥った。子承勲らが降伏を勧めても「天池での祭祀で天子の兆しを得た」と拒み続けたが、承勲らはついに部下を殺して光遠を幽閉し、城を明け渡した。少帝は助命を図ったが執政の反対で李守貞により殺害された(病死と発表)。漢髙祖即位後、尚書令・齊王を追贈されたが、建てられた碑石が理由なく折れ、陰徳の報いと噂された。
承勲――父を裏切り殺された子
- 楊承勲、光遠の長子。父の廕蔭で光濮州刺史、萊州防禦使を歴任し善政の評もあった。父の側近の奸党を除こうとしたが叶わず、光遠の反乱に伴い籠城したが、糧が尽きると弟承祚とともに父の命に背いて降伏し、汝州・鄭州防禦使に任じられた。契丹入汴後、父殺害の罪で圃田に召し出され、肉を切り取られて殺された。弟承信は青州節度使に任じられた。
盧文進――契丹を頼み後に離反する
- 盧文進、字は国用。范陽の人。劉守光の騎将から莊宗に降り、莊宗弟の李存矩配下として山北勁兵の徴募にあたったが、その苛政に軍中が怨み、乱軍に存矩を殺され、文進もこれに連座して契丹に奔った。
- 契丹の幽州兵馬留後として新州・武州への侵攻を導き、契丹の強盛に大いに貢献したが、明宗即位の翌年、十余万の部衆を率いて契丹の圧政を訴える表を奉り帰順した。明宗に厚遇され滑州・鄧州節度使、潞州、安州の節度使を歴任し善政を挙げた。
- 髙祖が契丹と和好を結ぶと、かつて契丹を裏切った身の不安から、天福元年十二月、行軍司馬馮知兆らを殺して部衆を率い淮水を渡り金陵の李昪に帰順、後に南方で卒した。
李金全――辺境の乱を平定するも背信する
- 李金全、もと吐谷渾の出。明宗に従い戦功を立て、涇州節度使として在任中に馬の過剰な貢納を明宗に咎められた逸話が伝わる。滄州節度使を経て清泰中に罷鎮、髙祖即位翌年、安州の王暉の乱を鎮圧する任に就いた。
- 髙祖の「一人も殺すな」との誓約を破り、乱に関与した部下を騙し討ちで殺害し財貨を奪ったが、姑息な扱いで咎められなかった。腹心胡漢筠の不法な統治が発覚し、代官として遣わされた賈仁紹を鴆殺させるなど専横を極めた。
- 天福五年夏、馬全節が後任に任じられると、漢筠は讒言で金全を動揺させ、金全は淮南に降った。財貨は李承裕に奪われ、部下数百人と夜逃げして金陵に至り、李昪に節鎮を授けられ、後に江南で卒した。
史論
史臣曰く、延光は昔、唐の臣として立派な評判を得ていたが、晋の代になって放恣な野心を抱いた。力尽きて降伏しながらも死を惜しんで恥をさらし、孟津での最期は千載の笑いものとなった。張從賔以下の者は皆、乱に乗じて身を滅ぼした者であり、論じるに足りない。盧文進は強敵の威を恐れ、李金全は側近に売られたのであって、事情は異なるとはいえ、いずれも叛いた点では同じであり、島夷に附いたことはいずれも醜いものである。