舊五代史卷九十四 晉書第二十 列傳九 萇從簡・潘環・方太・何建・張廷藴・郭延魯・郭金海・劉處讓・李瓊・高漢筠・孫彦韜・王傅拯・秘瓊・李彦珣
萇從簡――勇猛にして酷薄な武将
- 萇從簡、陳州の人。代々屠羊を業とし、力は数人に匹敵し槊を得意とした。莊宗に仕え小校となり、攻城の際に梯頭を志願して功を立てた。ある戦で敵の武勇を誇る旗手を単騎で討ち取り、莊宗に厚く賞された。矢傷の治療で医工が骨を削っても顔色を変えなかった逸話も伝わる。
- 不法な行いが多かったが莊宗はその戦功により屡々赦し、紹瓊の姓名を賜った。景州刺史、洺州団練使などを歴任し、明宗即位後は麟・汝・汾・金州刺史を歴任したが、その貪暴さから明宗に嫌われた。
- 潞王擁立の軍変に際し張廷蘊に捕らえられたが節を全うし末帝に赦された。清泰二年、潁州団練使。髙祖挙兵に際して河陽節度使となり、髙祖入洛の際に帰順。天福中、許州・徐州の節度使、開府儀同三司、開国公に進んだが、性は忌刻で疑い深く、鎮所ごとに城壁を高くし人の出入りを制限し、些細な違反も厳罰に処す苛政で知られた。天福六年秋、鄴で病を得て郷里で卒した。享年六十五、太傅を贈られた。
潘環――功臣にして苛斂の将
- 潘環、字は楚竒。洛陽の人。梁の閻寳に仕え、莊宗の魏博攻略の際に間道で梁に急報した。莊宗の平梁後は禁軍を統率し、明宗の北面契丹防御に従軍。天成初、涿州刺史、王都の乱平定に功があり易州刺史などを歴任。
- 天福中、范延光平定に参与し金州節度使、開運初は契丹侵攻に対する陽城の戦いで功を立て澶州節度使。契丹入汴後は洛陽に閑居していたが、河陽軍の乱に際し蕃将高牟翰に殺害され家財を奪われた。漢髙祖の代に太尉を贈られた。
- 六部・二鎮を歴任して蓄財に努め、宿州時代に賄賂を「𨫼(かなえ)の脚」の数に喩えて増減させた逸話から「潘𨫼脚」と渾名された。
方太――洛陽の混乱を鎮めた将
- 方太、字は伯宗。青州千乗の人。若くして小校となり、楊光遠に従い定州節度使叛乱鎮圧などに功を立てた。契丹入汴後、洛京巡検として鄭州で嵩山の賊帥張遇の乱を李瓊とともに撃退。
- 劉晞の逃亡後、河南府留守事を代行し、伊闕の賊帥の反乱を撃破するなど洛陽の安定に努めた。河陽の武行徳に召された際、推挙すると偽られて殺害された。
何建――蜀に降った辺境の将
- 何建、その先祖は迴鶻の出。代々雲朔に居住し、髙祖の帳下で厩を掌ったことから累進し、天福中に延州兵馬留後、彰武軍節度使となった。涇・鄧・貝・澶・孟の五鎮節度使を歴任し検校太傅に至った。
- 開運三年、秦州節度使の任にあったとき契丹入汴の詔を受けたが、「石氏二主に仕えた栄誉を今更捨てて契丹に服従できない」と憤り、蜀の孟昶に帰順した。中書令に加えられ、後に蜀で没した。
張廷藴――莊宗に愛された勇将
- 張廷藴、字は徳樞。開封襄邑の人。祖立は驍衛将軍、父及は光禄大夫を贈られた。武皇に見出され小校となり、莊宗の潞州救援・柵郷の戦いなどに従い、身に矢傷を負いながら奮戦し寵愛された。
- 同光初、明宗の汶陽攻略に従い、潞州の楊立の乱平定では夜襲で城を陥落させる功を立てたが、明宗・元行欽の到着が遅れたため慊りを買った。魏王継岌の蜀征討にも従軍。明宗嗣位後は懷州刺史、金州防禦使、隴州防禦使、清泰中に清河郡公に封じられた。
- 髙祖即位後、右龍武統軍、絳州防禦使を歴任し、開運三年冬、老病により帰郷を求め、翌年、家で卒した。享年六十九。文字にはあまり通じなかったが文士を重んじ、鄆帥戴思遠の判官趙鳳を見出し明宗に推挙した逸話が伝わる。潞州奪取の功を明宗に譲らなかったため出世を阻まれたともいう。長子光被は通事舎人に至った。
郭延魯――清廉な地方官
- 郭延魯、字は徳興。沁州綿上の人。父饒は本郡の守として名声を得た。若くして勇武で莊宗に保衛軍使に抜擢され、塞下で契丹を防いだ功があった。明宗即位後、汴州朱守殷の乱平定に功を立て検校尚書左僕射。
- 長興中、天雄軍北京馬歩軍都校を歴任し、清泰中、復州刺史として正税以外の徴収をせず善政を敷き、百姓の請願で留任を許された。髙祖即位後、単州刺史に着任するも一月余りで病没した。享年四十七、太傅を贈られた。
郭金海――蕃将として朝廷に殉じた将
- 郭金海、もと突厥の族。李嗣昭に従い戦功を立てたが、素行に問題があった。天祐中に昭義親騎指揮使、同光二年に本道馬軍都指揮使、天福二年に范延光討伐で功を立てた。安従進の反乱に対し湖陽の戦いで寡兵をもって大軍を破り検校太保・商州刺史に任じられたが、慶州刺史への転任途中、病没した。享年六十一。
- 従進との一騎打ちのような対峙の逸話や、従進の計略で毒入りの酒と薬を贈られたが疑われず朝廷に疑念を持たれるに至った逸話が伝わる。
劉處讓――樞密使に至った忠実な吏
- 劉處讓、字は徳謙。滄州の人。梁貞明初、張万進に仕え、耳を切って莊宗に急を告げた忠義から重んじられた。梁平定後は客省副使、天成初に検査官を歴任。
- 長興中、孟知祥の跋扈に対し官告国信使として派遣され、清泰中、忻州刺史などを歴任。髙祖挙兵に従い宣徽北院使、南院使を歴任。范延光討伐では楊光遠とともに参議し、張従賔の乱平定にも功があった。
- 范延光の降伏交渉を主導し検校太傅を加えられ、桑維翰・李崧に代わり樞密使に任じられたが、施策が髙祖の意に沿わず、継母の喪により罷免された。後に彰徳軍節度使、右金吾衛上将軍を歴任。少帝への昇進の遅れに不満を漏らし宰相を詆った逸話も伝わる。天福八年、封禅寺で卒した。享年六十三、太尉・太師を追贈された。子保勲は皇朝で省郎に至った。
李瓊――髙祖を戦場で救った忠臣
- 李瓊、字は隠光。滄州饒安の人。若くして騎士となり明宗の麾下に属した。同光二年、髙祖が薊門で敵に囲まれた際、瓊が髙祖の鉄衣を牽いて脱出させ、河を渡る際には自らの馬を髙祖に譲り徒歩で護衛した。
- この功で明宗に推挙され、鄴軍の乱の際にも髙祖の危機を救い、髙祖の陝州赴任にも従った。長興中、東川討伐で重傷を負いながら賊軍を破り、清泰中は雲州で契丹を捕獲する功を立てた。
- 髙祖即位後は護聖都指揮使となり、金帛を厚く賜与されたが爵位が伴わないことに鬱々としていた。少帝嗣位後、楊光遠の叛乱に際し誘いを拒み朝廷に評価された。開運三年、護聖右廂都指揮使、杜重威の降伏後は威州刺史に転じ、鄭州で群盗と戦い流矢に当たり戦死した。享年六十五。
高漢筠――太原防衛で節を守った文吏
- 高漢筠、字は時英。斉州厯山の人。学問を修めたが乱世を避けて武に転じ、莊宗の入衛に応じて衛州牙校を献策で説得し功を立てた。皇城使、成徳軍節度副使などを歴任。
- 清泰末、髙祖太原挙兵の際、太原巡撫の任にあり、張敬達没後、部将田承肇の反乱に際して節度使就任を拒み、危機を凌いだ逸話が伝わる。髙祖入洛後、左驍衛大将軍・内客省使を経て天福三年正月、東京の私邸で卒した。享年六十六。
- 廉潔で知られ、部下の賄賂を辞退し朝廷に報告した逸話や、亳州で私財を投じて逋租を代納した善政が伝わる。長子貞文は皇朝で開封少尹。
孫彦韜――綏懐の徳を示した将
- 孫彦韜、字は徳光。汴州浚儀の人。梁祖に見出され軍功を重ね、莊宗との対陣時に梁の運命を悟り莊宗に帰順した。莊宗の平梁後、晋州長歩都校、綿州刺史などを歴任し善政で評判を得た。
- 髙祖即位後、密州刺史として再任され間もなく卒した。享年六十四。濮陽で群盗を百人ほどの手勢で撃退した功があるが、廉潔を保てず、罷免後に洛陽で豪奢な邸宅を築いたことで淹滞し評判を落とした。
王傅拯――弊政を除いた地方官
- 王傅拯、呉江の人。父綰は偽虔州節度使。楊溥に仕え黒雲右廂都指揮使として海州を守ったが、唐長興元年、海州刺史陳宣を殺し州城を焼いて明宗に帰順した。曹州・濮州刺史、貝州防禦使を歴任。
- 范延光の乱の際、要職を疑われ用いられなかったが、髙祖即位後は諸衛将軍、寧州刺史として弊政を数十件も廃止し百姓に喜ばれた。虢州でも善政を敷き、開運中に武州刺史を経て帰洛の途上、病没した。多財を好み賔客を厚遇したため晩年は困窮した。
秘瓊――暴虐の末に誅殺される
- 秘瓊、鎮州平山の人。父遇は本軍偏校から慶州刺史に至った。清泰中、董温琪の衙内指揮使となったが、温琪が契丹に陥落した際にその家族を殺害し財を奪い、自ら留後を称した。
- 髙祖即位後、安重栄に代えられ齊州防禦使に転任させられたが、鄴の范延光の使者からの書に応じず、その怒りを買い、赴任途上、夏津で暗殺され家財も奪われた。この事件が延光の異志を露見させる契機となった。
李彦珣――親を射殺した非道の将
- 李彦珣、邢州の人。明宗の鎮地で通事舎人となったが、素行が悪く父母への孝養を絶っていた。清泰中、張従賔の乱に加担し敗れて魏州に奔り、范延光の反乱にも参与し歩軍都監として城の守備を担った。
- 楊光遠が彦珣の母を用いて招降を図った際、彦珣は母と知りながら矢を放って殺害するという非道を行った。延光降伏後、坊州刺史に任じられたが、朝廷内でその悪逆を弾劾された。髙祖は「赦命は既に行われた」として処罰しなかった。
史論
史臣曰く、萇従簡は莊宗のもとで河上に戦った勇者であったが、末帝のために孟津を守った際の行いは忠と言えるだろうか。忠が無ければ勇も貴ぶに足りない。潘環・方太はいずれも雄幹を負いながら乱世に没したのは、方略が身を守るに足りなかったからであろう。何建が秦隴の封を挙げて巴邛の俗に附いたことは、方鎮を守る者としてどうであろうか。その他の者は皆、爵位を分け合う程度の人物に過ぎないが、それでも名を後世に残すには足りる。秘瓊は董氏の一族を滅ぼした報いとして、まもなく鄴帥に誅殺された。何と応報の速いことか。ただ李彦珣が親を射たことは人倫にもとる行いであり、晋祖がこれを赦して誅殺しなかったのは、刑を失した甚だしい例である。