舊五代史卷九十三 晉書第十九 列傳八 盧質・李專美・盧詹・崔梲・薛融・曹國珍・張仁愿・趙熈・李遐・尹玉羽・鄭雲叟

盧質――莊宗擁立の功臣にして疎逸の文人

  • 盧質、字は子徴。河南の人。曽祖偲は太原府祁県尉、祖衍は刑部侍郎太子賔客、父望は尚書司勲郎中。若くして聡慧で文に長じ、芮城令・澄城令を歴任。
  • 天祐三年、太原に遊学し、武皇の幕府で李襲吉の娘を娶り、河東節度掌書記となった。武皇没後、克寧が兵権を握って嗣位を望んだ際、張承業らと密謀して莊宗を擁立する功を立てた。
  • 莊宗の四方征討に従い、莊宗即位の礼を大礼使として司り、性は疎逸で高位を好まず、宰相を固辞した。太原尹・北京留守事、戸部尚書知制誥、翰林学士承旨を歴任。同光元年、平梁に従い租庸事を判し、汴州軍府事を知るも孔謙の苛斂を諫めた。
  • 覆試進士の際、賦韻の平側の割合を誤り識者に譏られた逸話が伝わる。天成元年、同州節度使、耀忠匡定保節功臣を賜り検校司徒。長興二年、河陽節度使、滄州に移り、右僕射、河南尹などを歴任。髙祖即位後は病により分司洛陽、少帝嗣位後に太子太保。
  • 天福七年秋、洛陽で卒した。享年七十六、太子太師・文忠と諡された。子十一人、うち六男瓊が省郎に至った。

李專美――末帝を諫めた識見の臣

  • 李專美、字は翊啇。京兆萬年の人。曽祖隨は光禄卿、祖正範は尚書庫部郎中。父樞が覆試で落第させられた経緯から自らも文場を遠ざけ、陸渾尉・舞陽令として廉謹な政績を挙げた。
  • 唐末帝が河中を鎮めていた頃、風貌を重んじられ従事となり、末帝の夢の話に「将来必ず嗣主となる」と密かに告げた逸話がある。末帝即位後、樞密院直学士となり、内庫が窮乏し賞給が滞る中、専美は「国の存亡は行賞だけによらず、刑政と賞罰の適正による」と諫言し、これが受け入れられて洛陽の民は鞭笞を免れた。
  • 給事中、兵部侍郎、端明殿学士などを歴任し、髙祖入洛で除名されたが後に衛尉少卿、鴻臚大理卿を歴任。開運中に病没した。享年六十二。
  • 一族は姑臧大房として崔・鄭氏らと並ぶ四望族であったが、専美は氏族を誇ることなく、寒門の士大夫にも謙虚に接し、人々に評価された。宣徽使への転任を自ら望んだ経緯や、閩中への使節で難船したが無事帰還した逸話も伝わる。

盧詹――剛直な議論家

  • 盧詹、字は楚良。京兆長安の人。莊宗即位後、員外郎知制誥、中書舎人を経て天成中に礼部侍郎知貢挙、御史中丞、兵部侍郎、尚書左丞、工部尚書を歴任。剛直な議論で権貴に憎まれることが多かった。
  • 天福初、礼部尚書として洛陽に分司し、盧質・盧重とともに「三盧」と呼ばれ、酒と山水を楽しんで財利に頓着しない生活を送った。開運初、洛陽で卒し、家に財産がなく葬儀の費用も少帝より賜与された。太子少保を贈られた。

崔梲――孝と識見を兼ねた学士

  • 崔梲、字は子文。博陵安平の人。梁貞明三年に進士甲科及第。父の病に孝を尽くし、喪に哀毀を尽くした。明宗朝で監察御史などを歴任し、都官郎中、翰林学士に至った。
  • 天福初、学士承旨として草した制詞を宰相桑維翰に改められた際、唐の故事を引いて争ったが職を罷免された。貢挙を主宰した際、維翰の言葉を誤解して進士孔英を及第させ物議を醸した。尚書左丞、太常卿を経て風痺により太子賔客となり、享年六十八で卒した。
  • 文章・碑誄・制詔を多く著したが、写本を求められると「前賢の作あり、後来の者あり、これを何に用いるか」と断り、依頼された文は自ら焼却して人手を経ぬよう配慮した。夢見の話から自らの寿命を予見し、六十七で退官を願い、翌年果たして没した。兄棆は隠徳をもって知られた。

薛融――軍旅を語らぬ純朴な儒者

  • 薛融、汾州平遥の人。李存璋の幕職から莊宗の平河南に従い、明宗初に華州節度判官、右補闕直弘文館などを歴任。髙祖挙兵の際、諸士を問われて「儒生として書は読んだが軍旅の機は学んでいない」と正直に答えた。
  • 登極後は尚書吏部郎中、天福二年に中書舎人となるも学問不足を理由に諫議大夫に留まった。西京大内の修築を鄴での軍費不足を理由に上疏して中止させ、天福六年、病により卒した。享年六十余。

曹國珍――剛直で衒気ある諫官

  • 曹國珍、幽州固安の人。乱を避けて出家し河西に客居、高萬興兄弟に文才を認められ、左拾遺から尚書郎に至った。性は剛僻で経史に暗く、上章に誤字が多く縉紳に譏られた。
  • 髙祖の藩邸時代から通じ、即位後に自ら「厳陵」に比して吏部郎中から左諫議大夫・給事中に進んだ。李崧の母の葬送を批判して固く争うなど直言で知られたが、髙祖崩御後、山陵使馮道の入京を批判する上疏が越権とみなされ、陝州行軍司馬に左遷され、失意のうちに病没した。

張仁愿――刑獄に精通した廉直の吏

  • 張仁愿、字は善政。開封陳留の人。祖晸は右武衛大将軍、父存敬は梁河中節度観察留後。梁貞明初、衛尉寺主簿から起家し、唐同光初に大理正、以後大理少卿を歴任し法律に明るく詳刑の任にあった。
  • 兄仁頴が中風で家に臥せると十余年にわたり厳父のように仕え、孝友をもって推された。開運元年、大理卿として隰州刺史王澈の贓罪を功臣の縁故で赦そうとする朝廷に対し執奏を貫き伏法させ、議論する者に称賛された。開運二年、疾により卒した。享年五十一、秘書監を贈られた。

趙熈――契丹に殺された諫官

  • 趙熈、字は績巨。唐宰相斉国公光逢の甥。秘書省校書郎から起居郎に累遷し、南省正郎、天福中に張昭遠らと唐史の修纂に参与し、右諫議大夫に進んだ。
  • 契丹入汴の際、晋州で豪民から銭幣を徴発する使いに任じられたが、厳しい取り立てで人々を苦しめ、晋の三軍が副使駱従郎を殺す事件の後、百姓が武器を取って熈を館舎で殺害した。識者はこれを悼んだ。

李遐――節を守り叛徒に殺された忠臣

  • 李遐、兖州の人。若くして儒者として節操を持ち、数鎮の従事を経て尚書庫部員外郎に至った。髙祖即位後、皇子重乂の洛邑保釐に伴い西京留守判官となり、西京左蔵庫の監督を委ねられた。
  • 張従賔の乱の際、繒帛を運び出させようとする賊に対し「詔書なくして命を承れようか」と拒み、殺害された。髙祖はこれを悼み厚く賻贈し、右諫議大夫を追贈、母田氏は京兆郡太君に封じられ、子には官が授けられた。

尹玉羽――隠逸を貫いた文人

  • 尹玉羽、京兆長安の人。喪に長く服し隠居を望んだが、劉鄩に招かれ保大軍節度判官などを歴任した。清泰中、光禄少卿を退き秦中に隠棲、自ら「自然先生」と号した。
  • 宰相張延朗の招聘にも応じず、髙祖入洛後に召され『自然経』五巻を献上し、少府監として致仕、俸禄と衣を賜与された。天福中に卒した。『武庫集』五十巻が世に伝わる。

鄭雲叟――俗を離れた隠者

  • 鄭雲叟、本名遨。南燕の人。若くして学を好み進士に落第後、妻子とともに山林に隠れようとしたが妻に反対され、単身放浪の末に少室山に入り「擬峰詩」三十六章を著した。
  • 妻からの手紙を読まずに焼くほど俗世との縁を絶ち、華陰に隠棲して李道殷・羅隠之と交わり「三高士」と称された。梁の権臣李振と親交を結び、振が左遷された際には千里を徒歩で見舞った。
  • 天成中、左拾遺に召されたが応じず、羅隠之と山田で自給しつつ酒と詩を楽しみ、大瓠に酒を蓄えて風雅を楽しむ生活を送った。髙祖即位後、右諫議大夫に召されたが病と称して固辞し、「逍遥先生」の号を賜り俸禄を給された。天福末、七十四歳で卒した。文集二十巻が世に伝わる。

史論

史臣曰く、古来、龍鱗に攀じ鳳翼に付いて雲衢に達する者は、豊沛の士のみに限らない。才器を懐き明主に会えば、盧質以下の諸子のように一時の貴顕を得ることができる。曹国珍の直言、張仁愿の友悌、趙熈・李遐の二人が王事に没したことは、いずれも士林に恥じないものである。尹玉羽の貞退と鄭雲叟の隠遁は、奔競の風を抑え高尚の節を励ますに足るものである。