舊五代史卷九十二 晉書第十八 列傳七 姚顗・吕琦・梁文矩・史圭・裴皥・吳承範・盧導・鄭韜光・王權・韓惲・李懌
姚顗――拙にして廉なる宰相
- 姚顗、字は伯真。京兆萬年の人。曽祖希齊は湖州司功参軍、祖宏慶は蘇州刺史、父荆は国子祭酒。若くして敦厚で容貌を飾らず、当初は評価されなかったが、兵部侍郎司空図に見込まれてその娘を娶った。
- 性格は仁恕で、僕妾に欺かれても表立って咎めず、生涯喜怒を面に出さず、金銭勘定に疎く蓄えもなかった。唐末、嵩山で白衣の大夫に出会い、後に自身を宰相に推挙してほしいと頼まれる不思議な逸話が伝わる。
- 進士に及第後、校書郎、登封令、右補闕、礼部員外郎、翰林、中書舎人を歴任。莊宗の平梁後、復州司馬に貶められたが復帰し、左散騎常侍、兵吏部侍郎、尚書左丞を歴任。
- 唐末帝が宰相を選ぶ際、瓶に名を入れてくじ引きし、盧文紀とともに顗が中書侍郎平章事に任じられた。髙祖登極後は刑部尚書、戸部尚書を歴任し、天福五年冬に卒した。享年七十五、左僕射を贈られた。子惟和が継いだ。
- 財に疎く家政に術がなく、死後の葬儀の費用も不足し、家人は賻物や邸宅の売却を待って喪を挙げた。士大夫はその廉潔を愛しつつも不器用さを鄙しんだ。
吕琦――剛直な諫官
- 吕琦、字は輝山。幽州安次の人。祖夀は瀛州景城主簿、父兖は滄州節度判官。劉守光の滄州攻略で父が捕らえられ族滅の危機に遭ったが、義士趙玉に救われ変名して逃れた。
- 苦学の末、莊宗の招きで代州軍事判官となり、天成初に殿中侍御史、駕部員外郎兼侍御史知雑事となった。河陽の帑吏の横領事件では軍巡使尹訓の不正を暴き、朝廷に評価された。
- 髙祖挙兵の際は趙徳鈞の幕下にあった関係で末帝の使者を務めたが、晋祖降伏の報を伝える使者を斬って忠誠を示し、髙祖入洛後も咎められず秘書監に留まった。天福中、唐書修纂に参与し礼部・刑部・戸部・兵部侍郎を歴任。
- 剛直で知られたが内には仁恕を秘め、宰相李崧に推挙され髙祖に重用されようとした矢先、病を得て卒した。人々に惜しまれた。
梁文矩――公輔の望みを持ちつつ清静を好む
- 梁文矩、字は徳儀。鄆州の人。父景は秘書少監。梁の福王友璋に仕え、鄆州の争奪の際、両親の安否を気遣い間道で帰郷した逸話がある。
- 莊宗に召され天平軍節度掌書記、のち明宗の幕下で汴・恒二鎮に随従。天成初、宣武軍知事、御史中丞、吏部侍郎、礼部尚書、西都副留守などを歴任。
- 髙祖に推挙されつつも昇進せず、清泰初に太常卿、髙祖即位後に吏部尚書、太子少師を歴任。道書を愛好し赤松・留侯の術を慕い服食に励んだが、風痺を得て太子太保として致仕し、天福八年、洛陽で卒した。享年五十九、太子太傅を贈られた。
史圭――重誨に信頼され後に隠遁
- 史圭、常山の人。先祖は王武俊とともに塞外より石邑に移住。学を好み詩文に長じ、寧晉・楽夀の令を歴任し善政で慕われた。任圜・郭崇韜に用いられ、明宗即位後は河南少尹、枢密院直学士となった。
- 安重誨に信任され殿上侍立を許され尚書右丞に至り宰相への望みもあったが、重誨の剛愎な政務判断を正すことができなかった。重誨誅殺後は貝州刺史に出され、まもなく官を退き常山に閉居、人事を断って隠棲した。
- 髙祖登極後、馮道の推挙で刑部侍郎・判塩鉄副使に召され、吏部侍郎に転じ廉潔で公平な評判を得た。嵩山の術士から得た石薬を清泰末の秘瓊の乱で失い、天福中に胸中の熱病を発し、帰郷の途上、薬気にあてられて没した。享年六十八。
裴皥――三度貢挙を主宰した文人
- 裴皥、字は司東。中眷裴氏の出。剛直な性格で学問を好み、唐光化三年に進士に及第。梁初は文学をもって重用され翰林学士・中書舎人、莊宗朝で礼部侍郎、天福初に工部尚書、後に右僕射で致仕。
- 三度貢挙を主宰し、宰相馬裔孫・桑維翰らを見出した。門生の礼を重んじつつも私的な交わりは持たず、公私の別を明確にしたことが評価された。享年八十五、太子太保を贈られた。
吳承範――重用の兆しの中で早世
- 吳承範、字は表微。魏州の人。閔帝の鄴都在鎮時に才を見出され、長興三年に進士に及第。左拾遺、史館修撰、右補闕、樞密院直学士、翰林学士、中書舎人などを歴任し、桑維翰・李崧に重んじられ髙祖への推挙も受けたが、四十二歳で病没した。工部侍郎を贈られた。
盧導――勧進の是非を正した硬骨漢
- 盧導、字は熈化。范陽の人。進士及第後、校書郎、監察御史、史館修撰などを歴任。長興末に中書舎人となり、潞王が鳳翔から軍を率いて都に迫った際、馮道らが百官を率いて出迎えようとしたが、勧進文を書くよう求められると、まず太后の裁可を仰ぐべきだと主張し、軽々しく勧進すべきでないと諫めた。
- この見識は李愚にも支持され、天福中に禮部侍郎から尚書右丞に進み、吏部侍郎を経て天福六年秋、東京で卒した。享年七十六。
鄭韜光――名門に生まれ清廉に終える
- 鄭韜光、字は龍府。洛京清河の人。曽祖絪は唐の宰相、祖祗徳は国子祭酒、父顥は河南尹。唐宣宗の外孫にあたる名門の出。容姿優れ気節を守り、京兆府参軍から諫議大夫、給事中を歴任。
- 梁貞明中に讒言により寧州司馬に貶められたが莊宗の平梁後に復帰し、工礼刑部侍郎、尚書左右丞を歴任、国初に戸部尚書で致仕。三度使節を務めて君命を辱めず、清廉な生涯を送り、天福五年秋、洛陽で卒した。享年八十、右僕射を贈られた。
王權――契丹使節を固辞した硬骨の臣
- 王權、字は秀山。太原の人。曽祖起は左僕射、祖龜は浙東観察使、父蕘は右司員外郎という名門。進士及第後、秘書省校書郎、左拾遺などを歴任し、梁祖革命後は御史司憲、翰林学士、御史中丞を歴任。
- 莊宗の平梁後は随州司馬に貶されたが復帰し、戸兵吏三侍郎、尚書左丞、礼部尚書を歴任。髙祖即位後、兵部尚書に転じたが、契丹への使節を命じられた際、宰相しか奉使の実績がない中で自ら陪臣と称することを恥じ、老齢を理由に固辞して咎めも受け入れる覚悟を示した。結果、殿黜(降格)を受けたが、天福六年秋に病没した。享年七十八、左僕射を贈られた。
韓惲――莊宗の姻戚として重んじられる
- 韓惲、字は子重。太原晉陽の人。莊宗が妹を妃に迎えたことで一族が重んじられた。文学をもって交城・文水の令を務め、太原少尹、魏州支使、尚書戸部侍郎を歴任。
- 天成初に秘書監、馮道と旧誼があり礼部尚書、戸部尚書を歴任。明宗の山陵使副使を務め、髙祖即位後は先朝の姻戚として厚遇されたが、范延光の跋扈を恐れ赴任を渋り、髙祖の不興を買った。天福七年夏、鄴で脚疾により卒した。享年六十余。
李懌――識見を持って格式を辞退した文人
- 李懌、京兆の人。祖褒は唐の黔南観察使、父昭は戸部尚書。進士及第後、校書郎、監察御史などを歴任し梁に仕え、翰林学士、中書舎人を歴任。莊宗の平汴洛で懐州司馬に貶されたが復帰。
- 天成初、翰林学士に復帰。常侍張文寳の貢挙をめぐり、進士の詩賦の格式を定める役目を辞退し、「後生の俊才の規範となる資格はない」と謙譲した見識が評価された。天福中、工部尚書から太常卿、礼部・刑部尚書を歴任し、病がちで洛下に留まり、開運末の契丹入洛の混乱で家財を失い、まもなく病没した。享年七十余。