舊五代史卷七十五 晉書第一 高祖紀一
高祖聖文章武明徳孝皇帝、姓は石氏、諱は敬瑭、太原の人(892年生)。もと後唐の武将で、明宗の娘婿として重用され数々の戦功により名を知られた。後唐末帝との対立から清泰3年(936年)に晋陽で挙兵し、契丹の援助を得て唐軍を破り大晋皇帝に即位、後晋を建てた。
年表(19件)
- 892年太原の派陽里に生まれる
- 天祐十三年916年梁将劉鄩の軍に単騎で深く侵入し名を知られる
- 天祐十四年917年莘での戦いで転戦し梁軍に大きな損害を与える
- 天祐十五年918年梁将賀瓌の伏兵を破り、胡柳陂の戦いで明宗と計を定め梁軍を打ち破る
- 天祐十八年921年徳勝渡で梁将戴思遠を破り二万余人を殺す
- 天祐十九年922年胡盧套の戦いで明宗を護って退く
- 天祐二十年923年荘宗が即位し同光と改元、鄆州攻略で明宗を助け中城を抜く
- 同光四年926年趙在礼の乱を機に明宗の擁立を進言し先んじて汴州を確保する
- 天成元年926年明宗が即位し天成と改元、陝州保義軍節度使となる
- 天成二年927年汴州の朱守殷の反乱を急襲で鎮圧、宣武軍節度使となる
- 天成三年928年検校太傅・同中書門下平章事・天雄軍節度使を加えられる
- 長興元年930年東川の董璋討伐の都招討使となる
- 長興二年931年河東節度使となり北辺の防衛を担う。明宗と最後の別れをし、まもなく明宗が崩御
- 應順元年934年閔帝が即位し中書令を加えられる。岐陽の乱に際し閔帝と衛州で別れ、閔帝はまもなく潞王に害される
- 清泰元年934年太原節度使・北京留守に再任される
- 清泰二年935年忻州の乱兵に万歳を叫ばれ、末帝の猜疑を招く
- 清泰二年935年末帝への不満から晋陽で挙兵、官爵を削られ張敬達に包囲される
- 936年契丹に救援を求め、契丹主が自ら軍を率いて来援し唐軍を大破する
- 936年契丹主により大晋皇帝に冊立される
出自と生い立ち
- 高祖聖文章武明徳孝皇帝、姓は石氏、諱は敬瑭。太原の人。もと衛の大夫碏、漢の丞相奮の後裔である。漢が衰えて関輔が乱れると子孫は西域に流れ、そのため甘州に居る者もあった。
- 四代祖の璟は、唐の元和中に沙陀軍都督朱耶氏とともに霊武から帰附し、憲宗はこれを嘉して河東陰山府裨校に隷させ、辺功をもって累って朔州刺史に至った。天福2年(937年)、孝安皇帝と追尊され廟号を靖祖、陵を義陵とした。祖妣秦氏は孝安元皇后と追諡された。
- 三代祖の郴は早くに薨じ、左散騎常侍を追贈され、孝簡皇帝と追尊され廟号を粛祖、陵を恵陵とした。祖妣安氏は孝簡恭皇后と追諡された。
- 皇祖の諱は翌、振武防禦使を任じ尚書右僕射を追贈され、孝平皇帝と追尊され廟号を睿祖、陵を康陵とした。祖妣米氏は孝平献皇后と追諡された。
- 皇考の諱は紹雍、蕃字は臬捩雞。騎射に善く遠大な謀略があり、後唐の武皇及び荘宗に仕え、しばしば戦功を立て周徳威と互角であった。洺州二州の刺史を歴任し任にて薨じた。太傅を追贈され孝元皇帝と追尊され廟号を憲祖、陵を昌陵とした。皇妣何氏は孝元懿皇后と追諡された。
- 帝は孝元の第二子である。唐の景福元年(892年)2月28日、太原の派陽里に生まれた。その時、白気が庭に満ち、人々は大いにこれを異とした。
- 成長するにつれ性は沈澹(落ち着いて静か)で言笑が少なく、兵法を読み李牧・周亜夫の行事を重んじた。唐の明宗が代州刺史であったとき、いつも深くこれを器とし、愛女を妻せた。唐の荘宗はその弓の巧みさを聞き左右に抜擢し、明宗が大軍に隷属させることを請うとこれに従った。のち明宗は荘宗の征行に従い、帝に親騎を領させ「三討軍」と号し、心腹として頼りにした。
天祐十二年(915年)
- 荘宗が河北の地を併有し鄴に開府すると、梁は上将劉鄩に兵五万を率いさせ莘に営させた。
天祐十三年(916年)
- 2月、鄩は兵を引いて突然清平に至り城下に迫った。荘宗は自ら甘陵に至ったが、兵はまだ陣を成さぬうちに鄩に多く掩われた。帝は十余騎を領し槊を横たえ深く侵入し、東西に馳突して敢えて当たる者はなく、ついに部伍を全うして還った。荘宗はこれを壮とし、その背を撫でて「将門から将が出る、言葉は誤りではなかった」と言い、器帛を頒ち、さらに親しく酥(乳製品)を食べさせた。当時これを異恩とし、これより名を知られた。
天祐十四年(917年)
- 鄩の兵が莘の西北に陣を敷いた。明宗が荘宗に従い酣戦すること久しく、塵埃が四方に立ち込め、帝と明宗はともに敵陣に陥った。帝は身を挺して剣を躍らせ反復して転戦し、数十里を行き鄩を故元城の東で追い、この日鄩の軍は殺傷が半ばを過ぎた。
天祐十五年(918年)
- 唐軍が楊劉鎮を抜くと、梁将の賀瓌が無石山に伏兵を設けた。明宗が瓌に迫られると、帝は後殿となり梁軍五百余騎を破って轡を按じて還った。
- 12月、荘宗は梁軍と胡柳陂で大戦した。衆は十万と号し、総管周徳威は左軍を率い燕人を雑えていたが、前鋒が不利になり徳威はこれに死んだ。荘宗は歩衆五千を率いて高陵を固守し敵の鋭を避けた。明宗だけは右廂を全うして土山の下に伏し、帝を顧みて「梁人は初めその利を得て旌旗は甚だ整然としている、どのような計をもってこれを挫けるか」と言った。
- 帝は「臘(年末)の後の寒さはこのように厳しく、出す手は指が凍える。彼らには歩兵が多く、進みやすいが退きにくい。糒(乾飯)をすすり水を飲んでゆっくりとこれを困弊させるにしくはありません。かつ超乗(急な出撃)と徒歩ではその勢いは等しくない、一撃で破ることができ、必勝を期せます」と言った。明宗は「それは私の心と同じだ」と言った。
- ちょうど日が暮れる頃、梁軍は平野に列し五六万人が一方陣となり、遊騎を麾いて唐軍に迫った。帝は「敵将は遁れようとしている」と言い、明宗に士に胄を整えさせ寛やかにこれを羅させることを請い、左射軍三百人に鳴矢を馳せ回らせその勢いを漸次束ねさせ、数千騎をもってこれに合わせた。夜に及ぶと旌旗はみな靡き一角が先に潰え、三面がこれに踵いた。その牙卒が互いに撃ち合う音は火が爆ぜるようで、横たわる死体と積み重なる甲は数えきれないほどであった。これにより梁人の勢いは削がれ、荘宗は徳勝渡に進んで営した。
天祐十八年(921年)
- 10月、また明宗に従って梁人と徳勝渡で戦い、その将戴思遠を敗り二万余人を殺した。
天祐十九年(922年)
- 胡盧套で戦い、唐軍がやや退いた際、帝はその敵の鋭を見て剣を抜いて道を開き、明宗を肩護して退いた。敵はこれを望んで敢えて襲う者がなかった。
天祐二十年(923年) (莊宗即位・同光と改元)
- 10月、明宗に従って梁人の楊村塞を観たとき、部曲はみな甲を身に着けていなかった。まもなく敵が不意に出て兵で明宗を掩い、刃が背に及ぼうとしたとき、帝は戦戟を挟んで進み一撃で凶酋が馬から落ちる者が数輩に及んだ。明宗はこうしてその難を解いた。
- この年、荘宗は鄭で即位し(案:原文のまま。史書の通例では魏州で即位したとされる)、同光と改元した。明宗を遣わし河を越え懸軍深く入って鄆を取らせた。鄆人は初めこれに気づかなかった。帝は五十騎で明宗に従い済を渉り東門を突いて入り、鄆兵が来て拒むと、帝は刃に中りながら明宗を翼け、兵を通衢に羅して嶷然として動かなかった。まもなく後騎が続いて至り、ついに中城を抜いてこれに拠った。
- まもなく汴水を平らげ梁室を滅ぼし、荘宗を統一に至らせ、明宗の大勲を成就させたが、帝と唐末帝の功はその中で最も優れていた。荘宗の朝で官が顕著でなかったのは帝が矜伐(自慢)を好まなかったためである。ただ明宗だけはこれを心に知っていた。
同光四年(926年)
- 2月、趙在礼が鄴に拠って乱を起こすと、朝廷は元行欽を遣わしてこれを招いたが下らず、群議は紛然として明宗でなければ不可とした。荘宗はそこで明宗を統帥とした。当時、帝は従行して魏に至ったが、諸軍に変が起こり、馬を叩いて明宗に河北に赴くことを請うた。明宗は霍彦威の勧めを受け入れ自ら天子に訴えることにし、そのまま偽って諾い、諸軍もまた事が果たされないことを恐れて散る者が甚だ多かった。明宗が全うできたのはただ常山の一軍のみであった。
- 西へ魏県に次ったとき、帝は密かに明宗に「猶予は兵家の大忌です、もし訴えを求めるならその行を決すべきです。私は三百騎を率いて先に汴水に趨り虎口を探ることを願います。もしその志を遂げられれば、大軍を速やかに進めることを請います、夷門は天下の要害です、これに拠れば自ら雪ぐことができます。どうして上将が三軍とともに変を言いながら、後日互角の勝負があるでしょうか。危機は頃刻にあります、恬然としているべきではありません」と言った。
- 明宗が相州に至ると、そこで驍騎三百を分けてこれを帝に付し、帝を黎陽から河を渉らせ汴の西門から入らせ、これによってその城に拠らせた。明宗が汴に入るに及び、荘宗自ら師を統べてもまた城の西北五里に至り、高きに登って歎いて「私はもう成らないだろう」と言った。これより荘宗に従う兵は大いに潰え明宗に帰した。明宗はまもなくこれを遣わし兵を率いて前鋒とし汜水関に趨わせた。まもなく荘宗が内難に遭って崩じた。この月、明宗が洛に入り、帝の功を嘉して総管府都校から陝府兵馬留後に署した。
天成元年(926年)
- 明宗が即位し天成と改元した。5月、帝に光禄大夫・検校司徒を加え陝州保義軍節度使を充てた。任期が満了しないうちに軍民の政は大いに治まった。
天成二年(927年)
- 2月、検校太傅兼六軍諸衛副使を加え、開国伯に進封され食邑四百戸を増した。この月、帝は闕に赴いた、六軍諸衛事を副えたためである。8月、食邑八百戸実封一百戸を加え、政を為した効を旌したものであった。
- 10月、明宗が汴に幸したとき、帝を御営使とした。車駕が京水に次ったとき、汴州節度使朱守殷が叛いたと飛報があり、明宗は帝に親軍を統べさせ道を倍にして星のように急行させ、二晩で浚城に至り一戦でこれを抜いた。まもなく帝を宣武軍節度使・侍衛親領歩軍都指揮使兼六軍諸衛副使とし、開国公に進封され食邑五百戸を加え、耀宗匡定保節功臣を賜った。
天成三年(928年)
- 4月、車駕が洛に還り、制で検校太傅・同中書門下平章事・興唐尹・鄴都留守・天雄軍節度使を加えた。5月丁未、駙馬都尉を加えた。
長興元年(930年)
- 2月、明宗が南郊の礼を終えると検校太尉を加え食邑五百戸を増した。まもなく詔で任地に帰らせた。当時、鄴都は繁富で天下随一であったが、土俗は獷悍で民には訴訟が多かった。帝は函を府門に投じさせ一つ一つこれを覧た。一年を越えると机案に積み獄に滞る者が甚だ多くなったが、時論はこれをもって減ったとした。
- 9月、東川董璋が叛くと、朝廷は帝を東川行営都招討使兼知東川行府事とした。10月、魏博から至り衆を率いて西征した。
長興二年(931年)(明宗との訣別・崩御)
- 春、川路が険艱で糧運が続かないため詔で班師した。4月、再び六軍諸衛副使を兼ねた。6月、河陽節度使に改まり、なお兵柄を兼ねた。
- このとき、秦王従栄が「伏して見るに北面はしきりに契丹の族が帳を移し塞に近づいたと奏報し、吐渾・突厥はすでに辺地を侵しています。戍兵は多いといってもいまだ統帥がありません、早く大将一人に命じて雲・朔を安んずるべきです」と上奏すると、明宗は「卿らで商量せよ」と言った。従栄は諸大臣とともに「将校の中では石敬瑭・康義誠の二人のみが行けます」と奏した。帝は元来禁軍の制を為したくなかったので、すぐに「臣がこの行を願います」と奏した。明宗は「卿が私のために行けば済まないことはない」と言った。命を受けても六軍副使を落とさず、帝は再び遷延して辞避した。
- 11月乙酉、明宗は再び侍臣に「雲州が契丹は幽州から帳を移し放牧に就くと言い冬を終えるまで退かないと奏している、その患いは深い」と言った。枢密使の范延光は「すでに石敬瑭と康義誠が北行することを議しました、しかしその定奪は宸旨にあります」と奏し、帝は「臣は不才といえど、どうして事を避けましょうか、ただ進退はご命令のままです」と奏した。明宗は「卿が私のために行くのは大いに衆議に叶う」と言い、これにより定まった。
- 丁亥、兼侍中・太原尹・北京留守・河東節度使兼大同振武彰国威塞等軍蕃漢歩馬軍総管を加え、竭忠匡運寧国功臣を改め賜った。翌日、中興殿で宴した際、帝は觴を捧げ上寿し「臣は微怯とはいえ辺事についてはどうして忠力を尽くさずにいられましょう、ただ臣が遠く玉階を離れ時に応じて補報するすべがなくなります」と奏した。帝はそのまま再拝して辞去を告げた。明宗は涙を流し衿を潤し、左右はその過度の悲傷を怪しんだが、果たして帝とこれをもって訣別となり、二度と相見えることはなかった。
- 12月、明宗が晏駕(崩御)した。帝はこれを聞いて長く慟哭すること父母を喪うかのようであった。
應順元年(934年)
- 正月、閔帝が即位すると帝に中書令を加え食邑を増した。
- 帝は性が簡儉で、いまだかつて声色滋味をもって自ら燕楽したことはなく、いつも公務が退くと必ず幕客を召して民間の利害及び刑政の得失を論じ、明にして犯しがたく、事は多く自ら親しく決した。ある店の婦人が軍士と訟えて「粟を戸口に曝したところ馬に食われた」と言い、軍士は懇ろに訴えたが自ら明かすすべがなかった。帝は鞫吏に「両訟がまだ分からないのに、どう裁断すべきか。馬を殺しその腸を刳いてその粟の有無を見よ、あれば軍士を誅し、なければ婦人を死とせよ」と言った。そこで馬を殺すと馬腸に粟はなく、そのままその婦人を戮した。境内は粛然として敢えて偽りを言う者はなくなった。
- 3月、常山に鎮を移した。歴任した方鎮ではみな孝治を急とし、民間で父母がまだ存命なのに昆弟が財産を分け離れて暮らす者を見れば必ず処罰して殺した。吏事に勤め、廷には滞る訟えがなかった。常山の属邑に九門というところがあり、ある人が地を異居の兄に売ろうとして議価が定まらず、他人に移そうとしたが、他人は兄が券を立てることを求め、兄は固くこれを抑えていた。そこで令に訴え、令は弟兄がともに不義であるとして府に送った。
- 帝はこれを監じて「人が不義であるのは牧長が新たに至って教化がまだ及ばないためだ、私は大いにこれを愧じる。至理をもって言えば、兄は良田の利を得ようとし弟は善価を求めているのだから、これに順えば是であり、これを沮めば非である。その兄の不義は甚だしい」と言い、重い笞に処した。地を市したのは高値をつけた者が取ることになり、上下はその明断に服した。
- 岐陽の兵が乱れ潞王を天子に推すと、閔帝は急ぎ帝に詔して闕に赴かせ、社稷を託そうとした。閔帝は洛陽から出て衛へ奔り、道中で出会い、そのまま閔帝とともに衛州に還り入った。当時、閔帝の左右は帝に不利をなそうとし、帝はこれを覚りその従騎百余人を捕らえた。閔帝は事が済まないことを知り、帝とともに長く慟哭して別れた。帝は刺史王宏贄を遣わし閔帝を公舎に安置させて去ったが、まもなく潞王に害された。帝は後々長くこれを愧じる心を持ち続けた。
清泰元年(934年)
- 5月、再び太原節度使・北京留守・充大同振武彰国威塞等軍蕃漢馬歩総管を授けられた。
清泰二年(935年)
- 夏、帝は忻州に軍を屯していたところ、朝廷が使いを遣わして夏衣を送り詔を伝えて撫慰したが、のち軍人がにわかに万歳を呼ぶこと四度に及んだ。帝はこれを懼れ挟馬将李瑭以下三十余人を斬って徇え、ようやく止んだ。
- 3年(936年)5月、鄆州節度使に移り授けられ、趙国公に進封され、扶天啓運中正功臣に改め賜った。まもなく詔を降し帝に赴任を促した。帝は心中これを疑い、僚佐を召して議し「私が再び太原の任を受けた日、主上は面と向かって『卿とは北門を一生議に及ばない』とおっしゃった。いま突然この命が降ったのは、去年忻州の乱兵に迫られたことをもって私を猜疑してのことではないか。また今年、千春節に公主が入朝して見えた際、辞するにあたって公主に『お前の帰る心はとても急だが、石郎と反しようというのか』と言われたという、この私を疑う様子はすでに明らかである。いま天子は后族を用い邪臣は沈湎荒忽として万機は停滞し、刑を失い賞を失っている、亡びずしてどうしていられよう。私は自ら応順年中、少主が出奔した日に、人情が大いに去るのを見て危を扶け顛を持することができなかった、方寸に憤憤としてすでに三年になる。いま我に異志はないが、朝廷が自ら禍機を啓くなら、安然として道路に死ぬわけにはいかない。まして太原は険固の地で積んだ粟も多い、もしなお我を寛くするなら私はこれを奉じよう、もし必ず兵を加えるなら私は外に隣方に告げ北に強敵と結ぼう、興亡の数は皎皎として天にある。いま表を発し疾と称してその意を待とうと思う、諸公はどう思うか」と言った(『玉堂閒話』によれば、晋祖が并部にあったとき、かつて従容として賓佐に「近ごろ昼寝で夢を見た、以前洛京にいた頃のように天子と轡を連ねて路を行き旧第を過ぎたとき、天子は私にその地に入るよう請い、私は何度も遜譲したが、やむを得ず轡を促して入り庁事に至り馬を降り、阼階から昇り西に向いて座った。天子はすでに車を馳せて去っていた。この夢はこのようなものだった」と語ったが、群僚は敢えて答える者がなかった。この年冬、果たして鼎革(王朝交代)の事があった。考えるに晋祖が不軌の志を懐いたのは久しいことであり、それゆえ夢に託して衆を惑わしたのであろうという)。
- 掌書記の桑維翰・都押衙の劉知遠が密計を賛成し、末帝の命を拒んだ。朝廷は帝が詔を奉じないとして制で官爵を削奪し、すぐに晋州刺史・北面副招討使の張敬達に兵を領させ帝を晋陽に囲ませた。帝はまもなく桑維翰に諸道に赴いて援けを求めさせ、契丹は人を遣わし復書してこれを諾い、中秋に義に赴くことを約した(『遼史』太宗紀によれば、7月丙申、唐の河東節度使石敬瑭がその主に討たれ趙瑩を遣わし救いを求めた。当時、趙徳鈞もまた使いを遣わして至り、再び桑維翰を遣わして急を告げたので、そのまま師を興すことを許した。8月庚午、自ら将となって敬瑭を援けたという)。
- 6月、北面招討指揮使の安重栄が部曲数千人を率いて城に入った。7月、代州屯将の安元信が一軍を率い西河面先鋒指揮使の安審信とともに五百騎を引いてともに至った。8月、懐州彰聖軍使の張万迪らはそれぞれ千余騎を率いて来降した。この月、外の衆が我を攻めることが甚だ急となったが、帝は自ら矢石に当たり、人心は固いといえど廩食はしだいに困窮した。
- 9月辛丑、契丹主が衆を率いて雁門から入り旌旗は五十余里絶えなかった(『遼史』によれば、9月丁酉、雁門に入り、戊戌、忻州に次り、己亥、太原に次ったという)。先に人を遣わして帝に「私は今日すぐに賊を破ろうと思うがよいか」と報せると、帝は人を馳せて「皇帝が難に赴かれるのは功を成すことを要とします、賊の勢いは至って厚うございます、明朝穏やかに議戦してもまだ遅くはありません」と告げさせたが、使いが達しないうちに契丹はすでに南軍と馳せて将の高行周・符彦卿らと合戦した。
- 当時、張敬達・楊光遠は西山の下に陣を列していたが、士がまだ伍を成さないうちに行周・彦卿は伏兵に断たれ軍を舎てて退いた。敬達らの歩兵は大敗し死者は万人に及んだ。この夜、帝は北門を出て戎王と相見え、戎王は帝の手を執って「会うのが遅かったことを恨む」と言い、父子の義を論じた(『遼史』によれば、敬瑭が官属を率いて来見すると帝はその手を執って撫慰したという。『契丹国志』によれば、敬瑭が契丹帝に見えると帝は「皇帝が遠くから来られ士馬は疲倦しているのに、すぐに唐と大戦して勝ったのはなぜか」と問うと、帝〔敬瑭〕は「初め私は唐が必ず雁門の諸路を断ち険要に伏兵を置くだろうと思っておりましたが、人を遣わして偵視させるとどこにもありませんでした、それゆえ長駆して深く入り、我が気はまさに鋭く、この機に乗じてこれを撃ちましたので勝てたのです」と答え、敬瑭は歎服したという)。
- 翌日、帝は契丹とともに敬達の営塞を囲むと、南軍は再び出なくなった。帝と契丹はもとより結好がなかったが、末帝に迫られてより腹心の何福を遣わし刀錯を信として一言のもとに自らその難に赴かせた、その迅さは流電のようであった、天意であろうか。
- 己酉、唐末帝は親軍歩騎三万を率いて出て河橋に次った。辛亥、末帝は詔で枢密使趙延壽に衆二万を分けさせ北面招討使とし、また詔で魏博節度使范延光に本軍二万人を統べさせ遼州に屯させた。
- 10月、幽州節度使趙徳鈞は所部万余人を領し上党呉児谷から延壽の兵に合し団柏谷に屯し、敬達の寨と相去ること百里、月を彌るまでついに相通じることができなかった(『遼史』によれば、初め晋安を囲むと精兵を分遣しその要害を守らせ援兵の路を絶ったので、趙延壽らはみな逗留して進めなかったという)。
- 11月、戎王が営で帝に会し「私は三千里を義に赴いた、事は必ず成るはずだ。お前の体貌を観るに恢廓(度量が広い)で識量が深遠だ、真に国主である。天命に属するところがある、時を失ってはならない。蕃漢の群議に従いお前を天子に冊立したい」と言った。帝は久しく飾って辞譲したが、まもなく諸軍が勧請すること相継いだので、そこで晋陽城南に壇を築くことを命じ、帝を大晋皇帝に冊立し、戎王が自ら衣冠を解いて授けた(『遼史』太宗紀によれば、天顕11年(歴年の誤記か、原文のまま)冬10月甲子、敬瑭を晋王に封じ、11月丁酉、敬瑭を大晋皇帝に冊立したという)。
- その冊文に「維れ天顕九年、歳は丙申に次り、11月丙戌朔12日丁酉、大契丹皇帝が若く曰く。ああ、元気は初めて開かれ、これを樹つるに君をもってす。天命は恒ならず、人は徳を輔く、ゆえに商の政は衰えて周の道は盛んになり、秦の徳は乱れて漢の図は昌んになった、人事と天心は古今異なることがない。ああ、汝子晋王よ、神は睿哲を鍾め天は英雄を賛く、夢に叶い日に応じて祥を儲え、澄河に応じて運を起こし、数帝に事えるに及んで諸々の艱難を歴試し、武略文経はすなわち天縦によるもの、忠規孝節はもとより生知に由る。猥りに眇躬をもって北土を奄有するに及び、明宗の国を享くるに及んでは我が先哲王とともに明契を保奉し、子孫が順承し患難を相済うことを期し、丹書は未だ泯びず白日は欺きがたい。顧みるに予がこれを纂承してからは敢えて失墜することはなかった。汝はこれ近戚、実に本枝に係る、ゆえに予は汝を子のように視、汝は予を父のように待つ。朕はさきに独夫従珂がもとより公族でないのに窃かに宝国に拠り、義を棄て恩を忘れ天に逆らい物を暴い、骨肉を誅翦し忠良を離間し、矯諂を聴任し黎献を威虐し、華夷は震悚し内外は奔離することを聞いた。汝が無辜にして彼のために害を致されることを知り、敢えて衆旅を徴し来って厳城に迫った。併呑の志は甚だ堅いといえど、幽顕の情はどうして負くことがあろうか。予はこれを聞いて深く激憤に驚き、そこで師を興して汝のために患を除くよう命じ、自ら万旅を提げ遠く群兇を殄した。ただ急難に赴くことを、艱険を辞さなかった。果たして神祇が順を助け卿士が謀を協せるのを見、旗を一たび麾えば甲を棄て平山し、鼓を三たび作せば僵屍は野に遍く、遂に予が本志を果たし彼の群心を快くした。まさに金河に駕を稅め玉塞に班師しようとしたが、いわんや今、中原に主なく四海はいまだ寧んぜず、茫茫たる生民は塗炭に堕ちるかのようである。まして万機は暫くも廃すべきでなく、大宝は久しく虚しくすべきでない。溺れる者を拯い焚ける者を救うのはまさにこの日にあるべし。汝には民を庇う徳があり上下に格り、汝には難を戡める勲があり区宇に光り、汝には無私の行いがあり神明に通じ、汝には言わずしての信があり兆庶に彰る。予は汝の徳を懋め汝の丕績を嘉す、天の暦数は汝が躬にあり、これをもって汝に皇極を践むよう命じる。なお汝が自ら并土から義旗を首建したことをもって、国号を晋と称するのがよかろう。朕は永く父子の邦となり山河の誓いを保つ。ああ、百王の闕けた礼を補いこの盛典を行い、千載の大義を成し我が初心を遂げる。汝はその永く兆民を保ち、一徳を勉持し、位にあることを慎み、允くその中を執れ。これもまた無疆の休、これを誡めよ」とあった。礼が終わると帝は鼓吹に前導させ帰った。
- 初め梁が開国した年は、すなわち前唐の天祐4年(907年)であった。潞州行営使の李思安が「壺関県の庶穣郷で郷人が樹を伐ると、樹が倒れて自ら両片に分かれ、中に六字あり左書のように『天十四載石進』とあった」と奏し、梁祖は武庫に蔵させたが、その意味を詳らかにする者はなかった。帝が即位するに及んで識者は「天の字は四の字の中の両画を取ってこれを旁に加えれば丙の字になる、四の字は中の両画を去って十の字を加えれば申の字になる、帝の即位した年はすなわち丙申であった」と言った。また『易』に「晋は進なり」というので、国号を大晋としたのはすべて符契したのである。
- また帝が即位する前の年、歳は乙未(935年)にあたり、鄴の西に「李固」という柵があり、清水と淇水が合流しその側にあった。柵に橋があり、橋の下で大鼠が蛇と闘い、闘いは申の刻に及ぶと蛇が勝てず死んだ。行人で観る者は数百人おり、識者はこれを記した。のち唐末帝は果たして申(丙申の年)で滅んだ。
- また末帝は真定常山の人であり、先人の旧廬がその側にあり、古い仏刹があった。刹には石像があり、突然揺れ動いてやまなかった。人々はみなこれを異とした。晋陽が重囲されるに及び、帝は心腹の何福を遣わし軽騎で北蕃に援けを求めさせると、蕃主は自ら諸部を率いてこれに赴き、絹帛でも珠玉でもないのに、まるで響が声に応じるかのようであった。福に「私はすでに夢で兆しを得ていた、みな上帝の命であって私の意ではない」と言った(『契丹国志』が引く『紀録』によれば、契丹主徳光はいつも昼寝で夢を見た。ある神人が花冠をつけ美しい姿容で輜軿(車の飾り)がたいそう盛んで、突然天から下り白衣を着け金帯を佩び棨(旗)を執り、異人十二人がその後に従っていた。その中の一羽の黒兎が徳光の懐に入ったが失くなってしまった。神人は徳光に「石郎が人をやってお前を呼ぶ、お前は行くべきだ」と語った。目覚めてその母に告げたが、母はこれを忽せにし異とはしなかった。のち再び夢を見ると、前の神人がまた現れた。衣冠儀貌は儼然として元のようであり、「石郎はすでに人をやってお前を喚びに来た」と言った。目覚めて驚き再び母に告げると、母は「巫に占わせてみるがよい」と言った。そこで巫を召して筮させると「太祖が西楼から来ると言われる、中国にまさに天王が立とうとしており、お前が助けとなることを求めている、お前は行くべきだ」と言った。旬を経ないうちに、唐の石敬瑭が河東で反し後唐の張敬達に敗れ、急ぎ趙瑩を遣わし表を持たせ重い賂を約し燕雲を割譲することを許して兵の援けを求めた。契丹主は「私は石郎のためではなく、天帝の勅使を奉じてのことだ」と言ったという)。
- 当時、援兵はまだ至らず、偽将の張敬達は軍を引いて城に迫り柵を設けたが、柵がまさに成ろうとすると突然大風暴雨が起こり柵は立てられなかった。のち長城を築いたが、城が就くとまた水潦に壊され、城はついに合わせることができなかった。
- 晋陽には北宮があり、宮城の上に祠があり毗沙門天王という。帝はかつて焚修して黙してこれに祷った。数日経つと、城の西北の闉(門の外郭)でちょうど敵を受ける処にあたる場所で、軍候が「夜来一人あり、長さ丈余、金を介し殳を執り城上を行き、久しくして見えなくなった」と報告した。帝は心中これを異とした。
- また牙城には僧坊があり崇福坊といい、その廡下の西北隅に泥神があり、神の首から突然ある日煙が生じ立ち昇ることが曲突(煙突)のようであった。坊僧は駆けつけ人の火が延焼したと思ったが、俯いて見ると何もなかった。事はまもなく帝に達し、帝は年齢の高い僧を召して問うと、僧は「貧道は荘宗がまさに天下を得ようとしていたとき、かつてこの煙を見た、これを観るに噴き上がる様は当時よりも甚だしい、兆しは知るべきです」と言った。これより日の傍らに五色の雲気が蓮や菱の形をなすことが多くなった。
- 帝は占者を召してこれを視させ「この験は誰に応じるのか」と問うと、占者は「見えたところに瑞がある、これ以上誰に応じるかを問う必要はありません」と言った。また帝はいつも早朝に城壁の守りを慰撫させるのを常としていたが、ある夕方すでに暗くなった頃、城上に号令の声がして声は絶えず三度に及んだ。帝は人を遣わしてこれを問わせると、将吏は「上から伝わってきたものです」と言い、みな神助と知った。当時、城中にはまた数家の井泉が突然溢れ止まらなくなったこともあった。
- 蕃軍が大挙して至り勢いを合わせてこれを破ると、末帝の衆は朽ちたものを裂くかのようであった。これは天運がそうさせたのであって人力ではない。この日、帝は戎王に「雁門より北及び幽州の地を戎王の寿に献じたい、なお歳ごとに帛三十万を輸すことを約す」と言い、戎王はこれを許した。