舊五代史卷七十四 列傳二十六 康延孝・朱守殷・楊立・竇廷琬・張虔釗・楊彦温
康延孝は塞北部落の人。梁から後唐に降り、荘宗の汴州平定・蜀平定に大功を挙げた驍将。功を誇り郭崇韜との軋轢から反乱を起こし自ら西川節度・三州制置等使と称したが、任圜軍に敗れて漢州で捕らえられ、誅殺された。
年表(5件)
- 同光元年8月923年康延孝が段凝の軍から百騎を率いて荘宗に帰順した
- 3年925年康延孝が蜀討伐で西南行営馬歩軍先鋒排陣斬斫等使として活躍した
- 4年正月甲申926年康延孝が継岌の後軍として一万二千人を率いる将となった
- 4年2月癸巳926年康延孝は西平王李継麟(朱友謙)誅殺の詔に驚愕した
- 4年3月乙丑926年康延孝は漢州で任圜軍に敗れ、まもなく捕らえられて誅された
康延孝――出自と後唐での立身と最期
- 康延孝、塞北部落の人。初め太原に隷したが、罪を得て汴に亡命した。梁の開平・乾化中、隊長から労を積んで部校に至った。梁の末帝の時、しばしば軍功を立てた。
- 同光元年(923年)8月、段凝が衆五万を率いて王材に営したとき、延孝は右先鋒指揮使であったが、百騎を率いて莊宗に奔った。莊宗はこれを得て喜び御衣・金帯を解いて賜った。翌日、鄴に田宅を賜り捧日軍使兼南面招討指揮使・検校司空・守博州刺史とした。荘宗が人を屏け梁の兵機を問うと、延孝は利害を具に陳べた(詳しくは荘宗紀にある)。荘宗が汴を平らげるにあたり延孝は大いに力があり、功により検校太保・鄭州防禦使を授かり姓名紹琛を賜った。
- 翌年、郊礼が終わると保義軍節度使を授かった。3年(925年)、蜀を討つにあたり延孝は西南行営馬歩軍先鋒排陣斬斫等使とされた。延孝は性が驍健で利に赴き身を顧みず奮った。前鋒として鳳州を下し固鎮を収め興州を降し、王衍の軍を三泉で破り、捕虜にした蜀軍はみな諭してこれを釈放した。これより昼夜兼行し、王衍は利州から成都へ奔り帰り、吉柏の浮橋を断って諸軍を絶とうとしたが、延孝は再び浮橋を造って渡り、進んで綿州を収めた。
- 王衍は再び綿江の浮橋を断って去ったが、水が深く舟楫がなく渡れなかった。延孝は招撫使の李厳に「我らは孤軍で深く侵入している、王衍が肝を潰し人心が離れ沮んでいる時に乗じて意を兵に用いる方が利がある。ただ百騎を得て鹿頭関を過ぎれば、彼は迎え降るに暇もないだろう。もし橋梁を修善するのを待って数日留まり、王衍が近くの関を堅く閉ざしてしまえば我が兵勢は折れてしまう、もし旬浹に及べば勝負は測りがたくなる。速やかに騎兵で江を渡るべきだ」と言い、李厳とともに馬に乗り江に浮かんで渡った。これによって渡れた者はわずか千人、歩兵で溺死した者もまた千余人であった。
- 延孝はそのまま渡り終えると長駆して鹿頭関を過ぎ、進んで漢州に拠った。三日居ると部下の後軍がようやく至った。偽蜀の六軍使王宗弼が人を遣わし牛酒・幣馬を持たせ款を帰させ、旬日にして両川は平定した。延孝は漢州に止まって継岌の来到を待った。
- 延孝が功をたてていたとき、邠州節度使董璋は行営右襄馬歩使、華州節度使毛璋は行営左襄馬歩使であり、軍礼をもって延孝に事えていた。郭崇韜は私に董璋を愛し、西川が平定された後も、崇韜は兵機があるたびに必ず璋を召して参決させたので、延孝はこれを不平に思った。当時延孝は城西に、毛璋は城東に、董璋は城中に軍していた。
- 閏12月、延孝は酒たけなわ董璋に「私には平蜀の功がある、公らは僕として速やかに従っておきながら、侍中の門で首鼠両端して私を傾け陥れようとしている。私は都将だ、公および裨校を斬る力は十分にある」と言った。璋は恐惶して謝罪し退いた。酒が終わると璋は郭崇韜に訴え、崇韜は密かにこれを恨み、そこで董璋を東川節度使に署し軍職を落とさせた。
- 延孝は毛璋に「私は白刃を冒し険阻を犯すこと二度、両川を平定したのに、董璋に何の功があってにわかにその地を有するのか」と言った。二人は崇韜に謁見し「東川は重地、良帥を選ぶべきです。工部の任尚書は文武の才幹があり大いに衆心に叶います、彼を東川帥に表することを請います」と言うと、崇韜は怒り「紹琛(延孝)は反するのか、敢えて私の節度を差配しようとするのか」と言った。延孝らは恐惶して退いた。
- まもなく崇韜が継岌に害されると、二人は董璋を責めて「公はまた誰の門で首鼠両端するのか」と言い、璋は頭を垂れ哀れみを乞うばかりであった。
- 4年(926年)正月甲申、大軍が成都を発し、継岌は延孝に一万二千人を率いさせて後軍とした。2月癸巳、中軍が武連に次った際、中使が詔を持って至り「西平王李継麟(朱友謙)が罪あって伏誅した」と諭し、継岌にその子で遂州節度使の令徳を殺させた。延孝は大いに驚いた。まもなく董璋が兵を率いて遂州へ行こうとし、延孝に会っても謁しなかった。延孝は怒って諸校に「南は梁・汴を平らげ西は巴・卭を定めた、画策の謀は郭公に始まったが、汗馬の労を尽くし強敵を摧いたのは私である。もし偽に背いて国に帰し掎角して霸業を成したなら、西平王の功が第一だ。西平と郭公はともに無罪で赤族となった、朝に帰った後は次に私に及ぶだろう」と言った。
- 丙申、延孝が剣州に次ったとき、延孝の部下はみな鄜延・河中の旧将であり、焦武らは西平王が禍を被り令徳も誅されたと知り、軍門で号哭し延孝に訴えて「西平は無罪で二百口が伏誅した、河中の旧将で連座しない者はない、われらは必ず死ぬだろう」と言った。当時、魏王継岌は泥渓に到っていたが、延孝は継岌に「河中の兵士が号哭し乱を為そうとしている」と報告した。
- 丁酉、延孝は剣州に至り、そのまま衆を擁して引き返し、自ら西川節度・三州制置等使と称し、檄をもって招諭したところ、三日の間に衆は五万に及んだ。己亥、継岌が利州に至った夜、吉柏津を守る使いが密かに魏王に「紹琛の文字を得た、吉柏の浮橋を断てというものだ」と告げると、継岌は懼れて梁漢顒に兵をもって吉柏津を控えさせた。
- 延孝はすでに衆を擁して急ぎ西川に趨っていたので、継岌は人を遣わし馬を馳せて書を諭させ、夜半、監軍使李廷安に任圜を召させ、そのまま副招討使に署して圜に兵七千騎を率いさせ都指揮使梁漢顒・監軍李廷安とともにこれを討たせた。辛丑、まず都将何建崇に剣門を撃たせこれを下した。甲寅、圜が大軍で漢州に至ると延孝が来て戦を挑んだ。圜は董璋に東川の懦弱な兵でその鋭鋒に当たらせ、精兵をその後ろに伏せた。延孝は東川の兵を撃退しこれを急追すると、伏兵が起こり延孝は敗れて漢州に馳せ入り壁を閉じて出なくなった。
- 西川の孟知祥は兵二万をもって圜と勢いを合わせこれを攻めた(『九国志』李延厚伝によれば、康延孝が漢州に入ると、知祥は延厚に兵二千を率いさせ李仁罕に会してこれを討たせた。まさに行こうとするとき士に誓って率い「いま出師すれば三十日を待たずに必ず賊を破り功を立て賞を図る日となろう、士卒に忠を誓い東廂に立てる者と衰疾で西廂に立つ者があれば、自ら苦しむには及ばない」と言った。行を請う者を得ることができたのは七百人、延孝の西寨を逐い百余級を斬り首、ついにその城を抜いたという)。
- 漢州は四面に竹木を樹てて栅としていたが、3月乙丑、圜は金鴈橋に陣し、すぐに諸軍を率いて鼓噪して進み、四面から火を放つと風焔は空に亘った。延孝は危急となり騎を引いて出戦し金鴈橋で陣に遭ってまた敗れ、十数騎で綿州に奔ったが、河で建崇に追いつかれ捕らえられた。任圜は檻車に載せるよう命じた。
- 当時、孟知祥は任圜・董璋とともに酒を置いて高会していたが、これにより延孝を檻車のまま会に至らせた。知祥は「明公は先頃梁朝から脱身し命を帰し、わずかに汴水を平らげ陝郊を節制し、近ごろは前鋒を領して剣外を克平した。朝に帰ったのちは爵を授かり勲を冊せられ巨鎮尊官、誰と競おうか。それがなぜ躁憤して自ら功庸を毀し、この檻車に入り第二の鄧艾となったのか。深く痛惜すべきことで、誰がこれを憐れまずにいられようか」と問い、そのまま自ら盃を注いでこれを飲ませた。
- 延孝は「自ら富貴が消しがたいことは知っている、官職はすでに足りていた。しかし郭崇韜は佐命の元勲で大業を輔け成し、干戈を動かさずに両川を収獲したのは自古の殊功であったのに、ただ及ばぬことを恐れるうちに一旦何の罪もなく一門が誅殺された。延孝の徒がどうして首領を保てようか、これを思い慮ったので朝に帰る勇気がなかった」と言った。天道は相中す(応報がある)ということか、まもなく向延嗣が詔を持って至り、そのまま誅した。部下はその首級を懐に抱き、昭応県の民陳暉の地に瘞めたが、天成初、その子がこれを発いて持ち去った。
朱守殷――出自と後唐での立身と最期
- 朱守殷、小字は㑹児。荘宗が就学していたとき厮養として左右に給仕として侍った。荘宗が即位すると長直軍使となったが、戎行に列していても戦攻は聞こえず、いつも人の短長を構えては莊宗に取り入り、しだいに心腹として委任され、河上で対塁するにつれ蕃漢馬歩都虞候にしだいに遷った。
- 守殷が徳勝塞を守っていたとき、梁将の王彦章に攻められ、守殷は無防備でそのまま南寨が陥ちた。荘宗はこれを聞き「駑才が大いに私の事を誤らせた」と言い、北寨を撤して楊劉を固めに行った。明宗は鄆州にあって密かに覆軍の罪をもって罰することを請うたが、荘宗は腹心として私かに忍んで問わなかった。ともに罪を免れた。
- 2年(924年)、振武節度使になったが赴任せず、なお蕃漢馬歩軍を兼領した。京城が初めて定まった際、内外を警巡し主恩を恃んで勲旧を蔑視し、景進と互いに表裏をなし、また無理に宿徳の態度を作って言葉遅く自ら沈厚と称した。
- 郭従謙が興教門を犯すと歩軍が初めて乱れ、中使が急ぎ騎士を召したが、守殷は甲を按じて進まなかった。荘宗は独り宦官を率いて斬射し、しばしば退いても騎軍はついに至らなかった。荘宗が崩じたのち、守殷は衆を擁してちょうど北印にあり茂林の下で憩っていたが、凶問を聞くと宮に入り嬪御及び珍宝を選んで持ち帰り、軍士に恣に都を掠奪させ、翌日ようやく落ち着くと、諸校を率いて明宗を東郊に迎えた。
- 天成初、河南尹・判六軍諸衛事を授かり侍中を加え、汴州節度使に鎮を移した。車駕がまさに巡幸しようとしたとき、外議は喧しく、初め呉を平らげようとしているとされ、また東の諸侯を制置するとも言われた。守殷はそこで雲夢の疑いを生じ、都校の馬彦超と副使の宋敬(『欧陽史』によれば、守殷が叛こうとしたとき都指揮使の馬彦超を召して計事にあたったが、彦超は従わず、守殷はこれを殺した。明宗は彦超の死を憐れみその子承祚を洺州長史としたという)を殺し、市人を駆り壁を閉じて叛いた。
- 明宗は途上京水にあってこれを聞き、自ら禁軍を統べ程を倍して直ちにその塁に至り、長囲夾攻すると縋って城を降る者が甚だ多かった。守殷は力が屈し、その一族をことごとく殺し左右に自らの命を尽くさせた。王師が城に入りその党を索してことごとくこれを誅した。詔で守殷の屍を鞭ち首を梟して都市に懸け、七日を満たすと洛陽に伝送した。
楊立――出自と後唐での反乱と最期
- 楊立という者は、潞州の小校である。初め李嗣昭に仕え、李継韜に及んでもみな大いに厚遇された。継韜が誅されると憤憤として志を失った。同光2年(924年)4月、詔で潞兵三万人を涿州に戍らせることになり、まさに発しようとしたとき、衆に「我らは故使に仕えて二十年、衣食は豊足でいまだかつて辺塞の征行に赴いたことがない、もし辺上でつまずけば白骨がどこに帰ろうか、城に拠って自ら固める方がましだ、事が成れば富貴になれる」と謀った。
- そこで徒党百余人を集めて子城の東門を攻めると、城中は大いに乱れ、副使の李継珂及び監軍の張機祚は出奔した。立は自ら留後を称し軍民を率いて表を上げ旄節を請うた。荘宗は怒り明宗と李詔直に討伐を命じ、一月で抜き立及びその同悪十余人を生擒して闕下に送り、みな市で磔にした。潞州の城は峻しく隍は深いため、立はたやすくこれに拠ることができたのである。荘宗はこれにより諸道に防城の備えを撤するよう詔した。
竇廷琬――出自と後唐での立身と最期
- 竇廷琬という者は、代々青州の牙将であった。梁祖はこれを抜擢し左右に置いた。同光初、復州逰奕使となり姦盗は跡を屏め、貝州刺史を歴任した。まもなく慶州の塩池を制置することを請い、逐年絹十万疋・米十万斛を出すことを約したので、廷琬を慶州防禦使とし制置させた。
- これにより厳刑峻法をしいたが、しばしば辺人を撓し課利は集まらなかった。詔で金州に任を移されると、廷琬は慶州に拠って叛いた。詔で邠節度使の李敬周に兵を率いて討ち平らげさせ、その族を夷した。
張虔釗――出自と後唐・後蜀での立身
- 張虔釗、遼州の人(『九国志』によれば、虔釗は遼州榆社の人、父の簡は唐の検校尚書左僕射という)。初め太原牙校となり、武勇をもって流輩に聞こえた。武皇・荘宗の世、累って左右突騎軍使に補せられた(『九国志』によれば、荘宗はかつて偏師をもって鎮陽を取ろうとし、虔釗に騎兵を率いて先鋒とさせ、しばしば賊の鋭を挫きついにその城を陥れたという)。
- 明宗は元来虔釗に将才があると聞いており、即位するに及んで護駕親軍都指揮使に抜擢し春州刺史を領させた。天成中、諸将とともに王都を中山で囲み、契丹を嘉山の下で大破した。定州が平定されると功により滄州節度使を授かった(『北夢瑣言』によれば、虔釗が滄州に鎮した日、亢旱にあたり民が飢えたため廩を発いて賑わせ、上聞に及ぶと帝は大いに嘉奨したが、他日秋の収穫では倍の斗をもって徴した、朝論はこれを鄙しんだという)。
- 徐州に鎮を移し、長興中、山南西道節度使兼西面馬歩軍都部署となった。末帝が鳳翔で起つと、閔帝は詔で虔釗に部兵を率いて岐下で王師に会させたが、西師がともに変じるにおよび、虔釗は憤惋して興元に退き帰った。そこで洋州節度使の孫漢韶とともに蜀に款を送った。
- 孟知祥はこれをとりわけ厚遇し、偽って本鎮節度使を授けた。知祥が山南の地を坐して獲たのは虔釗の故によるものであった(『北夢瑣言』によれば、蜀に入ると人の産業を取り貨を貪ることに飽くことなく、蜀民はこれを怨んだという)。孟昶が偽位を嗣ぐと検校太師兼中書令を加えられた。
- 晋の開運末、蜀人は契丹が洛に入ったと聞き、虔釗に衆数万を率いさせ秦・雍を寇そうとしたが、まもなく漢の高祖がすでに中原を定めたと聞き、虔釗は功なく退いた(『九国志』によれば、左右匡聖馬歩軍都指揮使を歴任し、出でて昭武軍節度使となり、漢祖が即位するに及んで梁州に鎮を移し朝廷の変を観望した。ちょうど晋昌軍節度使趙匡賛・鳳翔節度使侯益がともに蜀に帰することを謀り、虔釗を北面行営招討使とし応接経営させた。まもなく趙匡賛・侯益は昶に出師して三秦を掠め定めるよう請い、そこで虔釗と韓保貞らに師五万を総べさせ散関から出させ、雄武軍節度使何重建には隴右から出させ、奉鑾粛衛都虞候李廷珪には子午谷から出させて雍州で会わせようとした。廷珪が子午谷を出るとまもなく匡賛が王景崇に逼られ城を棄てて東へ退いたと聞き、そのまま先に師を退いた。当時、虔釗・福誠・保貞の師は陳倉に次っていたが謀が相叶わず、また侯益は匡賛がすでに去り廷珪が班師したのを聞くと款誠もまた中途で変わり壁を閉じて出なかった。司天監の趙廷樞がしきりに雲気が不利であると諷したので、保貞は福誠とともに部の兵を率いて隴州道を取り、重建の帰蜀に会し、虔釗は宝雞に留まったが勢いが孤立し深く侵入させるべきではないとしてついに師を退いたという)。行きて興州に至り感憤して没した。
楊彦温――出自と後唐での反乱と最期
- 楊彦温、汴州の人。もと梁朝の小校である。莊宗の朝、累って裨将に遷り、天成中、河中副指揮使となった。末帝が河中に鎮するに及んでとりわけこれを厚遇し、奏で衙門都指揮使とした。長興元年(930年)4月、末帝が黄龍庄で馬を閲するのに乗じ、城に拠って叛くことを謀った。
- 末帝は人を遣わしてこれを告げ「私はお前を厚遇してきたのに、なぜ苦しんで叛くのか」と言うと、彦温は「私は敢えて恩に背いたのではありません、枢密院の宣頭を奉じ私にあなた様の命を拒むよう命じられたのです、どうか朝廷に帰られますよう」と答えた。数目、詔で末帝を朝に帰らせた。明宗はこれが詐りかと疑い、兵を興すことを望まず、彦温に絳州刺史を授けようとしたが、安重誨は堅く出師を請い、すぐに西京留守索自通・侍衛歩軍指揮使薬彦稠らに命じて兵を率いてこれを攻めさせ、五日でこれを抜いた。自ら門を閉じてから敗れるまで凡そ十三日であった。
- 初め彦稠が出師する際、明宗は「朕のために彦温を生きたまま連れてこい、私が自らこれを訊きたい」と戒めたが、城を収めると首を斬って伝送した。明宗は彦稠らを深く怒った。当時の議者は、当時四海は恬然として五兵はことごとく戢められ、蒲(河中)は辺郡ではなく国門に近いのに、彦温がどうして敢えて狂悖に出たのか、みな安重誨がまさに国権を弄び、とりわけ末帝の名声を忌んでいたので、巧みに窺伺を作った企てを行い、ついに誰も傾け陥れることができなかったのだと考えた。彦温は愚昧で人に嗾かされたのであろう、それゆえにその一族を滅ぼされたのである。
史論
- 史臣曰く、『春秋伝』に「不令の臣は天下の悪むところ」というので、もはやその優劣を較べる必要はない。ただ虔釗は地を避けて生を偸んだにすぎず、彦温は人に嗾かされたにすぎない、これらを叛臣に比べればまた憐れむべきところもあろう。