舊五代史卷四十 唐書第十六 明宗紀六

天成四年(929年)、王晏球が定州を収復し反乱者王都を斬ってその首級を献じ、天成三年来の定州の乱が終息した。この年はほかに皇子李従璨の不行跡による処分、呉越国王銭鏐の元帥尚父号剥奪、貪利の罪による亳州刺史李鄴の誅死などが記される。

年表(6件)

天成四年(929年)

  • 春正月壬申朔、明宗は崇元殿で朝賀を受けた。幽州節度使趙徳鈞は孫の趙賛が五歳で論語孝経を黙念し汴州で童子挙に取解したと奏し、詔で特に及第の名を賜り今年の春牓に附すこととした。戊子、天成元年以前の欠秋税を放免。左衛上将軍安崇阮を黔南節度使とした。壬辰、廻鶻入朝使徹伯爾ら五人に懐化司戈を授け放還。北京副留守馮贇を宣徽使判三司とした。戊戌、虚偽の試攝銜を天下に禁じた。西川孟知祥は支属刺史の自道による自署を上言。
  • 二月乙已、王晏球は三日、定州を収復し王都の首級を獲て契丹託諾ら二千余人を生擒したと奏し百寮が賀した。車駕の東京還幸を二十四日と定めた。辛亥、北面行営招討使宋州節度使王晏球を鄆州節度使兼侍中、北面行営副招討使滄州節度使李従敏を定州節度使、北面行営兵馬都監鄭州防禦使張䖍釗を滄州節度使とし、幽州節度使趙徳鈞に兼侍中を加えた。乙夘、樞密使趙敬怡に汴州軍州事を権知させた。丙辰、邢州は定州で送られた偽太子李継陶の処置を奏した。
  • 辛酉、帝は咸安楼で定州の俘馘を受け、露布を宣し、王都の首級を太社に献じた。王都の男四人・弟一人、託諾父子二人はともに市で磔にされた(露布の文が制勅の体に類したため識者に嗤われた)。樞密使趙敬怡が卒し太傅を贈られ、端明殿学士趙鳯に汴州軍州事を権知させた。甲子、車駕は汴州を発した。丙寅、鄭州に至り、左僕射致仕鄭珏に銭二十万を賜った。丁卯、宰相崔恊が卒し尚書右僕射を贈られた。東都留守太子少傅李琪らの奉迎の奏章に、契丹を「凶党」・真定を「逆城」と記した文言があり、詔で「契丹は即ち凶党だが真定は逆城ではない」として李琪を罰一月俸とした。庚午、車駕は汴州から帰還。
  • 三月甲戌、馮道が宰相任命を進表。丙戌、皇城使李従璨(帝の子)を房州司戸参軍に責授し配所へ発たせた(汴州巡幸中に大内警備を任されていたが、会節園で酔って御榻に戯登したため、安重誨が奏してこの処分に処された)。壬辰、中書は群臣の帰省覲省時の茶薬賜与を奏し許された。乙未、前鄆州節度使符習を汴州節度使とした。丙申、鄴都・幽鎮・滄邢・易定等州の百姓に正税以外の諸色差配を放免する詔が下った(王都討伐の役の輓運の労による)。
  • 夏四月庚子朔、鉄鑞銭を禁じた。壬寅、焼失した広壽殿の修復が成り、丹漆金碧の装飾を求める有司に対し帝は宏壮であれば華侈は不要と述べた。湖南は荊南賊軍を石首鎮で破ったと奏した。辺境に馬の交易場を設け蕃部が直接闕下に来ることを禁じた(党項諸蕃が駑馬良馬を問わず上進と称して献じ、館穀賜与の費用が甚大であったため、計司の建議で止めさせた)。
  • 壬子、皇子北京留守河東節度使従栄を河南尹判六軍諸衛事、皇子河南尹従厚を北京留守、河陽節度使趙延寿を宋州節度使、侍衛親軍都指揮使鎮南軍節度使康義誠を河陽節度使とした。契丹が雲州に寇した。癸丑、契丹は紐赫美稜らを再び遣わし朝貢、託諾らの骸骨を求め斬った。甲寅、端明殿学士趙鳯を門下侍郎兼工部尚書平章事とした。丙辰、諫議大夫致仕孔邈が卒した。庚申、王建立・孔循が中書直省吏を帯びて帰藩する慣行を廃した。壬戌、幽州節度使趙徳鈞に北面行営招討使を兼ねさせ、鎮州節度使范延光に検校太傅を加えた。
  • 五月己巳朔、帝は文明殿で朝を受けた。丙子、夔州節度使西方鄴が卒し輟朝。丁丑、大理卿李保殷が卒した。已卯、忠武軍節度使索自通を京兆尹充西京留守、左威衛上将軍朱漢賔を潞州節度使とした。乙酉、黔州節度使安崇阮を夔州節度使、左驍衛上将軍張温を洋州節度使、黔州留後楊漢賔を本州節度使とした。中書は少帝(李従厚)の諡号(昭宣光烈孝皇帝)を太常寺が定めたが廟号「景宗」は宗廟に入れぬため「昭宣光烈孝皇帝」のみとすることを奏し許された。
  • 丁亥、鳳州武興軍留後陳皋を武興軍節度使、新州威塞軍留後翟璋を威塞軍節度使とした。壬辰、権知尚書右丞崔居儉を尚書右丞とし、天下の官署の修葺を詔した。丙申、襄州は荊南高従誨の帰順の意を奏し、雲州は契丹の犯塞を奏した。六月辛丑、左散騎常侍姚顗を兵部侍郎とした。壬寅、夔州節度使楊漢章は雲州に移鎮、北京馬歩軍都指揮使兼欽州刺史張敬達を鳳州節度使とした。
  • 癸卯、前西京副留守張遵誨に衛尉事を行わせ客省使とした。国子博士田敏は四郊祠祭斎室の修葺を請うた。丙午、沂州刺史張万進を安北都護充振武軍節度使とした。戊申、宿州団練使康思立を利州節度使とした。登州刺史孫元は在任中の無名科率の罪で停任。鄴都は旧に復して魏府と称し、魏府・汴州・益州の宮殿の鴟尾を去り節度使衙署に賜ることを詔した。辛亥、権知朔方軍留後定難軍都知兵馬使韓澄を朔方留後とした。癸丑、前潞州節度使符彦超を左驍衛上将軍とした。諸道節度使行軍司馬の権限について、帥臣不在の州事は節度副使の権知に委ねることを詔した。
  • 丙辰、権知荊南軍府事高従誨は罪を首め職貢の修復を上章し、銀三千両を進めて贖罪した。壬戌、至徳宮に幸した。京城の空地に課人を立て建造させ、無力な者には請射(借地)を許した。秋七月庚午、前西京留守判官張鎛を司農卿とした。壬申、前左金吾上将軍毛璋は藩鎮での陰謀の罪により儒州長流百姓に貶され続いて賜死。甲戌、御史中丞呂夢竒は毛璋の馬を借りた罪で太子右賛善大夫に責授された。已卯、工部侍郎任贊を左散騎常侍、樞密直学士左諫議大夫充匭使閻至を工部侍郎とした。遂州が嘉禾一茎九穂を進上。
  • 壬午、給事中判大理卿事許光義を御史中丞とした。史館は編修中の莊宗一朝の事跡を「実録」、太祖・献祖・懿祖のそれを「紀年録」と名付けることを上言し許された。甲申、前荊南行軍司馬検校太傅高従誨を起復して検校太傅兼侍中充荊南節度使とした。丙戌、涇州節度使李従昶は華州に移鎮、冀州刺史李金全を涇州節度使とした。戊子、新及第挙人で正官の経験がある者への任官規定を定めた。壬辰、来年二月二十一日の南郊挙行を詔した。
  • 八月丁酉朔、大理正路阮は武成王廟の祭祀復活を上言し許された。戊戌、太子少傅李琪の撰した霍彦威神道碑文が眞偽混同として改撰を命じられた(李琪が梁の旧相として彦威の梁における事績を偽梁と呼ぶことを避けた偏りによる)。辛丑、乱離以来の掠奪生口の主人による識認・返還を詔した。前清河県令襲酅国公食邑三千戸楊仁矩を秘書丞とした。御史台は前中丞の奏請にかかる主簿朱穎の随庁罷任について、詔で主簿の正秩により考限を終えるまで留任させることとなった。
  • 甲辰、宰臣馮道を南郊大礼使、兵部尚書盧質を礼儀使、御史中丞許光義を儀仗使、兵部侍郎姚顗を鹵簿使、河南尹従栄を橋道頓遞使、客省使衛尉卿張遵誨を修装法物使とした。乙已、黒水朝貢使郭済に歸徳司戈を授け放還。丁未、翰林学士承旨礼部侍郎知制誥李愚を兵部侍郎、中書舎人盧詹を礼部侍郎、兵部侍郎裴皥を太子賓客とした。吐渾首領念公山が朝貢。戊申、帝は袞冕で文明殿にて昭宣光烈孝皇帝を追冊した。庚戌、宰臣監修国史趙鳯に集賢院事を兼判させ、左散騎常侍任贊に大理卿事を判せしめた。
  • 已未、高麗王王建が使者を遣わし方物を貢献。辛酉、節度使帯平章事・侍中・中書令の勅牒署名規定を整理し、元帥尚父銭鏐・南省官資馬殷の勅尾署名を落とすことを詔した。乙卯、党項首領が朝貢。甲子、金真観に幸し、建法大師・尼智願(円恵大師、武皇夫人陳氏)に賜号改称。丙寅、達靼が朝貢。京城の南州・北州(張全義が光啓中に築いた)の空地への居住を許した。
  • 九月丁卯、宗正寺の申告により懿祖永興陵・献祖長寧陵・太祖建極陵が代州鴈門県に、追尊四廟が応州金城県にあるとし、応州を望州、金城・鴈門を望県に昇格させた。辛未、太常博士段顒は大祠には宰相、中祠には卿監、小祠には五品官を差遣する規定を上言し許された。癸巳、天下兵馬元帥尚父呉越国王銭鏐は無礼の罪で元帥尚父呉越国王を落とし太師致仕とされた(上将軍烏昭遇が両浙への使いで朝廷の事を私に呉人に告げ、銭鏐を殿下と呼び臣と自称して拝謁の礼を行ったため、副使劉玫の報告により官爵停止となった。烏昭遇は御史台で賜自尽されたが、後に浙中からの帰使者はこの事が誣告であったと語り、人々は昭遇を寃と見た)。
  • 乙未、両浙の綱運進奉使は諸道通勘とし巡獄を行わないことを詔した。冬十月丙申朔、吏部三銓を一銓に併合し、本司官員の同商量注擬・連署申奏を定め私第での注官を禁じた。戊戌、襄州兵馬都監守磁州刺使康福を朔方河西等節度使とした(朔方将吏が朝廷からの帥を求めたため)。庚子、右金吾上将軍史敬鎔を左金吾上将軍、左驍衛上将軍符彦超を右金吾上将軍、前黔州節度使李承約を右驍衛上将軍、雲州節度使張敬詢を右驍衛上将軍、前華州節度使王景戡を右驍衛上将軍とした。
  • 癸夘、太常少卿蕭愿は南郊行事で祠官と共に飲酒し翌朝も酔いが醒めず礼を行えなかった罪により太子洗馬に責授され緋を奪われた。詔で新授朔方節度使康福に兵一万を率いて赴鎮させた。已酉、故荊南節度使高季興の官爵を復した。辛亥、閬州を保寧軍に昇格。壬子、内客省使左衛大将軍李仁矩を閬州節度使とした。七星亭に幸。丙辰、夏州が白鷹を進上、安重誨が違詔の進貢と諫めたが帝は「善」と言い密かに献上させた。この日、龍門に幸。
  • 十一月丁夘、洛州で水が暴漲し民家の垣舎を壊した。戊辰、刑部侍郎張文寳を右散騎常侍、己已、尚書右丞李光序を刑部侍郎とした。癸酉、曹州済陰県を次赤に昇格(昭宣光烈孝皇帝の温陵所在による)。甲戌、奉国軍節度使王延禀に兼侍中を加えた(福建節度使王延鈞の請による)。車駕は近郊に出て夏州進献の白鷹を試した(安重誨に知られぬよう命じた)。已卯、日南至(冬至)で帝は文明殿にて朝賀を受けた。癸未、秘書少監于嶠は振武長流百姓に配せられ永く任用を許されぬこととなった(宰臣趙鳯の誣奏による)。史官張昭遠らは新修の献祖・懿祖・太祖紀年録二十巻・莊宗実録三十巻を上呈し器帛を賜った。
  • 十二月丁酉、朔方康福は野利大蟲両族三百余帳を方渠で破り牛羊三万を獲たと奏した。戊戌、授官・封贈官誥・挙人冬集等の費用は官が負担することとした。壬戌、中書は宰臣の致齋中の押班・知印・内殿起居・国忌行事の免除等の規定を奏し許された。