舊五代史卷三十六 唐書第十二 明宗紀二
天成元年(926年)四月、明宗(李嗣源)が莊宗の弑逆後に即位し、同光四年を天成元年と改元、大赦・後宮整理などの新政を行った。端明殿学士の職を創設し馮道・趙鳯を任じ、莊宗を輔けた宰相豆盧革・韋説を貪瀆の罪で貶官・流罪とした。
年表(7件)
- 天成元年四月丙午926年明宗が西宮で即位し柩前で冊を受けた
- 天成元年四月甲寅926年同光四年を天成元年と改元し大赦、後宮・諸司の整理を行った
- 天成元年四月丙子926年郭崇韜の帰葬と朱友謙の復権・河中節度使任命を許した
- 天成元年五月丙辰926年端明殿学士の職を創設し馮道・趙鳯を任じた
- 天成元年六月丙申926年莊宗の梓宮を発引し雍陵に葬った
- 天成元年七月已夘926年宰相豆盧革を辰州刺史、韋説を溆州刺史に貶した
- 天成元年七月甲申926年豆盧革を陵州、韋説を合州の長流百姓とした
天成元年(926年)
- 夏四月丙午、明宗は興聖宮から西宮に赴き、文武百官が縞素で列した。帝は斬衰の喪服で柩前に即位し、冊を受けた。百官は吉服に改め祝賀した。
- 丁未、群臣が西宮に赴いて臨んだ。樞密使安重誨を検校司空・左領軍大将軍・樞密使とした。宰相豆盧革らが三度上表して聴政を請い、これを許した。諸道および淮南へ使者を遣わし哀を告げさせた。
- 辛亥、聴政を開始。壬子、西南面副招討使・工部尚書任圜が歩騎二万六千を率いて入見。甲寅、文明殿で朝を受け、同光四年を天成元年と改元して大赦。後宮内職は内官百人・内官三十人・教坊百人・鷹坊二十人・御厨五十人を残し、その他は去らせた。有名無実の諸司使務を停止し、諸軍を近畿で食させ輸送の労を減らした。秋夏の税は加耗(余分な上乗せ)を停め正数のみとし、節度使・防禦使の進奉は正・至・端午・降誕の四節に限り、州府による百姓からの科斂を禁じ、雑税の名目を定めて商旅を煩わせぬようにした。租庸司の繋省銭物は全て収納させ、私的な回図(融通)に用いることを禁じた。
- 乙夘、渤海国王大諲譔が使者を遣わし朝貢。同月、北京副留守知留守事張憲は守りを失った罪により賜死。
- 五月丙辰朔、帝は視朝せず西宮に臨んだ。宰相豆盧革を左僕射、韋説を門下侍郎兼戸部尚書監修国史に進めともに平章事とした。兗州節度使朱守殷、滄州節度使安元信、邠州節度使毛璋にそれぞれ同平章事を加え、太子賓客鄭珏を中書侍郎兼刑部尚書同中書門下平章事、工部尚書任圜を中書侍郎兼工部尚書同中書門下平章事・判三司とした。徐州節度使李紹真ら(貝州刺史李紹英・斉州防禦使李紹䖍・河陽節度使李紹竒・洺州刺史李紹能)が前朝から賜った姓名を旧に戻すことを願い出て許された。李紹真は霍彦威、李紹英は房知温、李紹䖍は王晏球、李紹竒は夏魯竒、李紹能は米君立とそれぞれ本姓名に復した。青州節度使符習・徐州節度使霍彦威にそれぞれ兼侍中を加え、霍彦威は鄆州に移鎮。
- 丁巳、初めて文武百官は正衙の常参のほか五日に一度内殿での起居を行うことを詔した(脚注)。麟州で指揮使張延寵が乱を起こし市民を焼き掠めたが、すでに討伐された。戊午、河陽節度使夏魯竒に検校太傅を加え、貝州刺史房知温を兗州節度使、斉州防禦使王晏球を宋州節度使、洺州刺史米君立を邢州節度使とした。己未、百官に馬一頭・驢一頭を賜り、西都知府張籛が魏王継岌の打毬馬七十二匹を献じた。北京馬歩都指揮使李従温が詔により宦官を誅殺したことを奏した(莊宗の内難の際、宦官数百人が山谷に隠れ僧に扮して太原まで逃げていた七十余人を都亭駅で誅した)。
- 辛酉、華州に散っていた西川の宮人を各々の骨肉に帰した。壬戌、前相州刺史・北京左右廂都指揮使安金全を安北都護振武節度使同平章事とした。甲子、前西都留守京兆尹張筠を検校太傅・山南西道節度使とし、夔州節度使李紹文を遂州節度使、前鄧州留後戴思逺を洋州節度使、金吾将軍張実を金州防禦使とした。戊辰、検校司空趙在礼を滑州節度使検校太保としたが、在礼は軍情に順わぬとして赴任を拒んだ。許州留後陶玘を鄧州留後、諸道馬歩副都指揮使安審通を斉州防禦使、権知北京軍府事汾州刺史符彦超を晋州留後、前陳州刺史劉仲殷を陝州留後、前磁州刺史劉彦琮を同州留後とした。福州節度使王延翰に検校太尉同平章事を加え、翰林学士戸部侍郎知制誥馮道と翰林学士中書舎人趙鳯をともに端明殿学士とした(端明の職はここに始まる。明宗即位当初、四方の上奏文を安重誨が読んでいたが文義に通じず、孔循の献議で唐代の侍読の号にならい端明殿学士を創設し馮道らに命じたという)。
- 丙子、西道行営都招討制置等使守侍中監修国史兼樞密使郭崇韜の帰葬とその世業田宅の返還を許した。故万州司戸朱友謙を復して護国軍節度使守太師兼尚書令河中尹西平王とし、田宅財産を骨肉に返した。丁丑、西都衙内指揮使張籛が偽蜀主王衍の犀玉帯二条・馬百五十匹を進納した(莊宗が中官向延嗣を長安に遣り王衍を殺させた際、蕭牆の禍で延嗣は行方知れずとなり、衍の資装妓楽はすべて張籛のものとなっていたが、事の露見を恐れてこれを献じたもの)。
- 戊寅、樞密使安重誨に襄州節度使を兼ねさせたが、重誨の党が要地の兼任を諫めたため辞退を許した。左金吾大将軍張遵誨を西京副留守知留守事、衛尉卿李懌を中書舎人翰林学士とした。壬午、前蔚州刺史張温を振武留後、左右廂突陣指揮使康儀誠を汾州刺史、左右廂馬軍都指揮使索自通を忻州刺史とした。呉越国王銭鏐が使者を遣わし金器五百両・銀万両・綾万匹を献じ玉冊金印への謝恩とした(同光末年、鏐が密かに玉冊金印を求めた際、郭崇韜は不可としたが、樞密承旨段佪が賄賂を受け成事させ、莊宗がこれを許したためこの貢謝があった)。
- 甲申、幽州節度使李紹斌に検校太傅同平章事を加え、趙徳鈞と本姓名に復させた。乙酉、百官の朔望入閤における廊下食の賜与を詔した(乾符以降廊餐の経費不足で絶えていたが、入閤の際は賜うこととした)。
- 六月戊子、前襄州節度使李紹珙を起復して依前襄州節度使とし、本姓名劉訓に復させた。皇子で河中留後の従珂を河中節度使とし、百官が表で賀した。翰林承旨兵部尚書知制誥盧質を検校司空充同州節度使、吏部尚書判太常卿事李琪を御史大夫、礼部尚書崔協を太常卿判吏部尚書銓事、御史中丞崔居儉を兵部侍郎、太子賓客蕭頃を礼部尚書とした。九月九日の皇帝誕生日を応聖節として休暇三日とすることを定めた。故忠武軍節度使斉王張全義に太師を贈り、前尚書右丞崔沂を尚書左丞とした。丙申、新州留後張庭裕・雲州留後高行珪をそれぞれ正授の本軍節度使とした。
- 丁酉、四夷来朝の礼を定め、大国は正衙で威容を示し、小国は便殿で恩沢を示すこととした。戊戌、樞密使安重誨に検校太保・行兵部尚書事を加え、太子詹事劉岳を兵部侍郎、太子右庶子王権を戸部侍郎、太子左庶子任贊を工部侍郎とした。庚子、荊南節度使南平王高季興に守太尉兼尚書令を加え、沢潞節度使孔勍に兼侍中を加えた。汴州屯駐控鶴指揮使張諫らの謀反が誅せられ、樞密使孔循に権知汴州軍州事を命じた。甲辰、孔循に検校太保守秘書監を加え、秘書少監姚顗を左散騎常侍、太子左諭徳陸崇を右散騎常侍、兵部郎中蕭希甫を左諫議大夫、前幽州節度判官呂夢竒を右諫議大夫、鄴都副留守孫岳を潁州団練使とした。
- 詔して、太宗文皇帝が即位後も旧称を改めなかった故事にならい、避諱は文書中で連称する場合のみ避ければよく、臣下も自ら改めるかどうか任意とした。丁未、京城の潜龍旧宅を至徳宮と改名。戊申、夏州節度使朔方王李仁福に食邑千戸を加え、延州留後高允韜を延州節度使、利州留後張敬詢を利州節度使、剣南西川節度副大使孟知祥に検校太傅兼侍中、剣南東川節度副大使董璋に検校太傅を加えた。壬子、鳳翔節度使李曮に検校太師兼中書令を加え、汴州知州孔循が謀反者趙䖍已下三千人を族誅した旨を奏した。甲寅、晋州留後符彦超を北京留守、鎮州副使王建立を鎮州留後、右龍武統軍安崇阮を晋州留後とした。荊南節度使高季興の上言により、夔・忠・万三州を旧に復して当道に隷させた。
- 秋七月乙夘朔、太原旧宅を積慶宮とした。庚申、契丹・渤海国が朝貢。甲子、韓城・郃陽二県を同州に属させ、滑州で反乱した左右崇牙・長剣等軍数百人とその族を誅した(首謀者于可洪らも都市で斬られた)。丁夘、偽蜀の守司空門下侍郎平章事晋国公王諧を検校司空守陵州刺史とし、虢州刺史石潭を耀州団練使とした。辛未、諸道の月旦起居表の慣例を改め、四孟月の表は正・至の賀表のみとした。甲戌、進納された新授判官・州県官の官告勅牒について、将相以外は宣賜せぬ旧例に戻すことを定めた。
- 乙亥、莊宗皇帝の梓宮が発引され、帝は衰服で楼前に臨んで送り、この日雍陵に葬った。鎮州留後王建立は、涿州刺史劉殷肇が代を受けず謀反したため兵を発して劉殷肇とその党十三人を捕らえたと奏した。己夘、比部郎中知制誥楊凝式を給事中充史館修撰判館事、偽蜀吏部尚書楊玢を給事中充集賢殿学士判院事とし、応州を彰徳軍節度に昇格させ興唐軍を彰徳軍に隷させた。宰相豆盧革を辰州刺史に、韋説を溆州刺史に貶し、諫議大夫蕭希甫の疏奏に基づく詔で両人の罪状(田客をもって人を殺させた、隣家を侵して井戸を奪った、元亨を及第させた、王参の本名を選んだ、三司や陶鎔の職務を委任した、私愛の子に土地を与えた等の貨を貪り国を誤った罪)を挙げて糾弾した。宰相鄭珏・任圜が安重誨に救解を求めて再三上表したが留中のまま報いられなかった。
- 辛巳、捧聖厳衛左廂馬歩軍都指揮使李従璋を饒州刺史充大内皇城使とした。中書門下は検校官が尚書省へ納める礼銭の減省規定(太師太尉四十千から二十千、太傅太保三十千から十五千、司徒司空二十千から十千、僕射尚書十五千から七千、員外郎中十千から三千四百)を奏し、詔でこれを認めつつ軍功による遷官は特例として不徴とした。癸未、辰州刺史豆盧革を費州司戸参軍に、溆州刺史韋説を夷州司戸参軍に責授(員外置同正員)とし、馳駅にて発遣させた。
- 甲申、さらに詔して豆盧革・韋説の罪状を重ねて糾弾したが、即位初めの寛大の意により極刑を減じ、革は陵州、説は合州の長流百姓とし、同州長春宮判官豆盧昇(革の子)・尚書屯田員外郎韋濤(説の子)も現任を停止した。